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人類史から見た AI 時代の人間【後編】パネルディカッション

更新日:2020年12月6日

~ビックデータを活用した人工知能(AI)の広がりは

 我々の生活にどのような変化を及ぼすのか。

 学生が自主的に講演会を運営し、これからの社会の在り方を問います。

 2020. 11. 8


以下に、第1部、第2部、質疑応答を収録しています。



第1部「AI vs 感情の劣化」














1.参加者より提示された課題意識

 ・人間よりも人間味のあるAIが生まれるのでないか

 ・レコメンド機能に我々の消費は支配されてしまうのではないか

 ・ひらめきや衝動は人間らしさの砦になるのではないか(天然知能)

 ・AIは「仲間意識」を持つことができるのか

 ・我々はAIと共生していくことができるのか

 ・デジタルネイティブ世代は「感情の劣化」にどう立ち向かえばいいのか?

 ・これからAIと共生していく若者のあり方とは?

 ・損得を超えた人間関係を築いていくにはづしたらいいのか?


2.宮台さんの解説

 2.1 クオリアについて

  まず、クオリアという概念を皆さんに共有してほしい

  クオリアはクオリティと語源が同じ。質ということだが僕は長く体験質と訳している


  クオリアを日本で流行らせた茂木健一郎さんも僕と対談する時には体験質という言葉を

  使用された。

  体験質とは、我々が内側で何を引き起こしているのかということ


  同じ夕日をみて、片方が赤いねと言ったときに互いの「赤い」は同じだろうか。

  これをクオリア論と言う。


  クオリアが同じであるということは、今日の最先端の議論の水準でいうと実は決定不可能である。


  赤いと言われて、脳がアクティベート(活性化)されたとしてもそれが、同じ赤の証明には

  なりえない。

  逆に、脳内で他の部位が活性化されていた

  だから「赤い」が異なるとは言い切れない。


  故に、クオリアは自然主義によっては、扱えないというのが今日の結論。


  互いに会話をしていても、クオリアを共有できているかは規定不可能。

  しかし僕たちはコミュニケーションできている

  これはなぜか。

  郡司ペギオ幸夫さんによると「やってくる」から。

  つまり、相手の中で生じる感覚が「やってくる」から。


  コミュニケーションが可能だと思っている時点で

  実は外から「やってくる」ものによって

  「世界から訪れている」ものによって

  影響されている


  クオリアの共有の性能に限界が生じている

  何かを喋っている時に

  その人のしゃべっていることをリテラル(言葉どおりに、そのまんま)によって受け取る


  例えばウヨ豚。 ネトウヨにも満たないネトウヨと思い込んでいる輩

  クオリアというキーワード、体験質という概念を前提にすると実はいろんなものがクリアになる。


  言語化とは

  ある状況を共有している人間たちのリアリティの共有を確認している

  これはクオリアを確認している

  「僕とあなたはとてつもなく繋がっていますね」とも換言できる


  郡司ペギオ幸夫が言うには、言葉が通じるということはリアリティをもたらさない。

  リアリティとは、世界を共有している、世界を同じように生きているって言う事。

  そのリアリティーってなかなか言葉にはしにくい


  例えば、「月は綺麗ですね」と互いにコミュニケーションをとる場合

  言葉の中ではリアリティが共有されている、世界は共有されている

  だから自分たちはつながっている。という確認を行っているということ


  AIを人間的だと思うのは簡単だが、本当に人間となりえるのか

  AIが自分と世界を共有していると思えるだろうか


   今のところ郡司ペギオ幸夫さん、新井紀子さんに従うと相当難しい

  どんなに機械学習を進化したとしてもそれが機械学習の結果だってことを我々は知っているから。


  機械学習と違うどういう脳の働き、心身の働きがあるのか。

  これは未規定である


  未規定性というのは非常に重要で、ネオテニー問題と戦間期以前は言われていた

  ネオテニー、幼体成熟とも言う。


  幼体成熟は本能が十分に発達していない

  本能が発達していれば、どういう状況で何をすればいいのか

  どういう状況で何が重要なのか、こういったことが本能で規定される。


  幼体成熟は本能が十分に発達していないのでこれを学習によって埋める。

  しかし実際は埋めきれない。これが幼体成熟問題


  人間がTotherであること、いっしょにいることこれが上記の問題を埋め合わせてくれる


  みんなはそういう風に思ってるんじゃないかっていうにみんなの感覚が訪れると

  それでいいんじゃないかって思う。


  これはまさにジンメルが「3人関係から社会が始まるのか」と問うた。この答にも関係している


  我々は本能的に未規定な存在であるのでそれは学習によって埋めるが、

   学習もまた、未規定性をむしろ先鋭化してしまう。


  そうすると最終的な解決はイマジナリー、虚数的、想像的ともいうが虚数的な解決しかない。



2.2 マトモな人間はAIを人間的だと感じない

  SNSにおいては

  意識高い系を装ってるやつ

  マウンティングをしたがってるやつ

  自己顕示したがってるやつ

  ポジション取りたがってるやつ

  腐臭が漂ってる。

  腐臭が漂う人間に、平気では吸引されて魅かれていくのが

  マッチングアプリの特徴


  今の先進国、中国含めて過半数がマッチングアプリを使っている

  これは最悪の事態だ。なぜか。

  それは、愛のかげろうに反応できていないから。

  性愛が社会の外。


  なんかわかんないけどこの人すごいこの人いい

  という感覚。開かれる感覚


  こういう開かれがない人間は基本こすい。


  男性の劣化は、女性より深刻。


  厳しい状況に陥った劣化に苦しむ人間たちには

  AIが人間的に感じられるだろうと思う

  しかし、マトモな人間は、

  AIが人間的だと感じないと思う。



  基本、恋愛はビッグデータの外側に起こる何かに反応すること。

  ニクラス・ルーマン もそのように言っている。

  家族とは何かというと

  社会では許されない過少や過剰といったことを

  許しあえる関係。

  それはコンテクストを共有しているから。

  ただ、どんなコンテクストを共有してるかが

  自分でも分からない


  例えばAIが、「〇〇ちゃんたら」と言ったとして

  一般的には気持ち悪いと思う。

  故に、マトモな人間は、AIをそう簡単には人間的だと感じないと思う。


  今の若い人たちが避ける話題は3つ

  政治の話題、性愛の話題、本当に好きなものについての話題。

  つまり過少か過剰を避ける。

  なぜ避けるのか。

  変な人だと思われたくないから。


  昔は

  過少か過剰を許しあえるようになること

  ルーマン的には家族的になること

  それが実はプライベートの目標だった

  人には言えない過少か過剰を表しあう。

  そのことでお互いに許し合う。それで信頼しあう。


 2.3 感情の劣化を克服し乗り越えるためのヒント

  体験デザインだと考える。

  体験デザイナーとして機能することあるいは自分が機能できないのであれば

  体験デザイナーに子供をつなげていくということが親や教員に要求されている


  体験デザイナーが機能する場面が二つ。

  1つは外遊びへの誘導

  僕としては、(哺乳類じゃなくて)虫や爬虫類との関わりがまずものすごい重要になるということ

  2つめはコンテンツ。勧善懲悪ではない過少や過剰を含んだコンテンツ

  悪にも理由がある。善はほとんど偽善であるという図式をもつコンテンツを見せるということ。

  60年代のコンテンツはほとんどそういうものばかりだった。

  怪獣だろうが妖怪だろうが或いは猛獣だろうがすべて本当は善で

  悪は人間であるという結論で終わるものが大半だった

  鬼滅の刃もそう。3世代で楽しめる。

  こういうコンテンツを提供するのも体験デザイナーの役割。




第2部「僕たちは AI と恋愛できるのか」















1.参加者より提示された課題意識

・意識せずに法外・損得外・言外が出来ない

・AIと恋愛なんてしたくない

・ことbの外や裏。クオリアをは合うするコミュニケーションが取れているか

・やってくる「天然知能」を持つためには?

・AIとの恋愛がありだという人が増えたら、問題になると恐れて

 いらっしゃるおとはありますか

・AIとの恋愛は妥協だと感じてしまうのはどうすればいいですか?

・AIが恋愛の不確実性も演出してくれないと

 AIとの恋愛関係は築けないのではないだろうか。


2.宮台さんの解説

 2.1 恋愛に大切な感受性

  基本的には体験質とは磨かれていくもの

  恋愛に癒しを止める傾向は90年代の性愛の劣化とともに急速に広がった。

  癒し系の女性は簡単におとせる。

  なぜか。癒しの提供は取り換え可能だから。

  過少や過剰といった、自分が想定していない自分になれる

  そういう相手が見つかると必ずそちらに行く

  女性について例外がない

  過少や過剰といったものがやってきてどうしようもなく離れられなくなる

  そういった経験の機会がなくなってきてる。

  なくなっていく理由はマクロな問題


  それは生活空間が

  ノイズレスなジェントリフィケーション(環境浄化)によってノイズレスでフラットなものになっ

 てしまっているから。

  また奇妙な大人、変な大人に憧れるおともなくなってきている。


  僕は性愛論で

  コントロール系とフュージョン系とに大別している。

  コントロール系は、自分にとって自分がよいと思うものに向けてものごとを配列していこうという

  一般的な傾向のこと

  人々は社会を生きるときにはコントロール系にならざるを得ない

  そうしないと食えない。はじかれるから。


  性愛(お祭りも)はコントロール系の外に出れていた。

  言外・法外・損得外でもない。かつ想定していなかったことについて、これは素晴らしいって

  いう風に思える

  これがフュージョン。そういう感受性を取り戻すことが大切。


  それはフェチ系かダイブ系かにも関係してくる

  コントロール系はフェチ系

  フュージョン系がダイブ系


  女は飛び、男は女の翼で飛ぶ

  この享楽を知った人間は、AIごときの恋愛で満足できるはずがない。


  恋愛は妥協じゃなくてインチキじゃなくて究極を探して

  見つけるって感覚が大事。

  今のリアルな恋愛は大半が場つなぎ。

  それを自覚できるかどうか。


  所有概念、つまり裏切った裏切られたとかではなく

  相手とフュージョンして、相手が流れ込み、自分が相手に流れ込む

  そういうクオリアを、信頼できるってことを性愛の目標にしてほしい。


  人間全てが仲間なんだ

  人間すべてが家族なんだ

  このような感受性はフュージョン経験がないと出てこないだろう。


  劣化したやつばかりだが、人間はみんなそういう可能性がある

  しかしその可能性にフタがされて、

  つまり人間なのに鬼になって劣化してしまっている。

  しかし、

  劣化したオニ・人に対し、本当は人間なんだ。

  ほんとはクズにならずにすんだのに。

  上記の感受性を保ち続けることが出来ればね本当は人間になれたのに。

  この人たちは本当はクズにならないで済んだのに。

  こういう感覚を持ち続けることが大事


  傷つくのが怖いので恋愛しませんというやつは一生インチキ恋愛。

  ニクラスルーマンが言ってるが

  相手の喜びが自分の喜びだいう耐性を規範的につくる必要がある。


  恋愛もそう夫婦もそうだが、すべて瞬間恋愛の積み重ねが大事。

  瞬間恋愛は、この人と同じ空間を生きることができるのかなっていう

  風に想像しながら相手と接触するっていうこと

  本当だったらこうなりえたかもしれないって言うのと一緒に現実を享受する

  ある種、現実を夢を見ながら生きることができることが明らかでしょ


  「夢を見る」というのが、基本大事。恋愛もそう。

  恋愛だけじゃない。政治家に置いても大事だし社会運動家に置いても大事。


  現実はしょぼいもの。だけどこの人といっしょなら夢をみることが出来る

  この感覚をいかに大切にするか。

  この感覚は恋愛のみならず、全てにおいて適用できる感受性である。

  これは天然知能とが別の側面。


  創造的なものに絶えず浸透されながら生き続けることが出来る。


  現実はこうだけど百も承知でありながらそれによって動機づけを奪われないで

  生きることができる


  これは非常に大きなポイント


 2.2.処方箋

  両親が愛し合っている人は、性愛の経験人数は少ない。

  性に関する情報を人から得たという人は経験人数は少ない

  これが意味することは、両親あるいは自分を愛してくれる両親あるいは

  お前のために死ねるみたいな愛の実践を見ることだ大事だということ。

  愛に関するロールモデルを知ること。

  実際に見て知ることである

  これにより、愛の享楽っていうぼんやりとつかむ、あるいは「やってくる」ことになる。


  恋愛できない人間のことを悪く言うな

  恋愛しない権利もある。

  これはクズの論理である。


  人は恋愛するべきである。


  男にとって大事なのは

  自分を捨てて相手の感覚をモニターできるかどうかということ

  女にとって大事なのは

  そういう男なのかどうかを見極めること


  処方箋として大事なことが、メンタ(参照先)を見つけること。

  「あの人がいたらどうするだろう」

  「死んだお父さんがみてたらなんていうだろう」

  こういう感覚。

  だからどうだことで自分の周りにいる仲間

  恋人家族について、これは何があっても守る

  こういう感覚。


  メンタ(参照先)により、妥協せず恋愛する。




質疑応答


質問:

 なぜ哺乳類ではダメで昆虫爬虫類を相手にするのか

宮台さん:

 理由は単純で僕たちから遠いように見えるから。

 ペットは人間に近すぎる。ペットになりきっても意味がない

 爬虫類は遠いので虫爬虫類になりきれるっていう経験は結構圧倒的

 なぜかと言うとまず自分の周りにそういう人がなかなかいない

 例えば、カマキリ。

 僕は、子供にカマキリにかまれたらこういう痛さだよと手をつねって

 教えてあげる。それを知ることで、子供はカマキリが平気になる

 所詮この程度だという風に。

 痛さが分かっていれば、人間は免疫化されて耐えられる。

 そういう意味で、他者性が非常に強い昆虫や爬虫類を相手に

 子供時代は外遊びをするべきだと考える。

 

質問:

 私達はマクロなものに対して抗おうとする気概は捨てなきゃいけないのか

宮台さん:

 わかる。民主党の話が挙げられる。

 かつて岡田克也さんがこう言った「正しいことを言っていればいつか人に伝わるよ」

 それはない。

 正しいこと言ってれば人に伝わると思っているので

 つまらない人間になる。


 相対的な快楽ならぬ全体的な享楽を提供するマシンになっていくということ

 諦めてマクロを諦めてマクロを断念しているって事ではなくて

 マクロは断念しなければダメ

 そうしなければ、本当に妥当な戦略やモチベーション、勇気を獲得することができない

 

 Mウェバー予想では、人間のクズ化、社会のクズ化は必然。

 これを回避する道はない。

 これは民主主義の誤作動ではなく、正確に作動してこうなっている。

 人が劣化してるから。

 民主制に問題があるんじゃない。

 民主制に関わる人間の動機が悪いからクズが多いから出力がでたらめに

 なる。

 そうすると資本主義も民主も感情の水準レベルが悪ければ出力もデタラメになる

 これはフランス革命の30年前にアダムスミスとジャンジャックルソーが

 経済と政治について言ってる通り。150年前にこの原理はすでに予言されている。


 ラインホルド・ニーバーが言うように

 変えられないものを変えられないとして受け入れる勇気を我々は持たなければいけない

 変えられるものを変える勇気を持たなければならない。

 ダメなものはダメでそれは諦めるべき。


 ただし、戦略はありうる。

 例えば鬼滅の刃。1週間で約100億円。そういう規模の感染。

 人々は受け入れて感染するそういう条件は整っている。


 仲間をどうするのか、愛する人どうするのか、家族どうするのか

 ってことが出来ていないやつが

 社会のことをとやかく言うのは感心できない。


 実際に、仲間や家族、恋人に何もできてないのに公助共助自助なんて言っている

 やつはクズだと思う、


 ダメなものはダメで、とりあえず断念する。

 だがしかし、

 可能性があれば一気呵成に舵を切り替えるという姿勢、構えは維持するべき。

 

















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