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人類史から見た AI 時代の人間【前編】宮台さんの講演編

~ビックデータを活用した人工知能(AI)の広がりは

 我々の生活にどのような変化を及ぼすのか。

 学生が自主的に講演会を運営し、これからの社会の在り方を問います。

2020. 11. 8



1.宮台さんの自己紹介

宮台真司と申します。

昭和34年生まれで、僕が生まれた頃はまだ蒸気機関車あるいは石炭ストーブとか

薪でお風呂を焚くとかっていうのが普通の時代でした。

小さい頃は虫に爬虫類などを手づかみで捕まえたりするというそういう生活をしていました

また、近くの川があれば泳いでも句言われなかったし

焚火をしても誰も通報しなかった。そういう時代。


僕の生まれは宮城県仙台ですが、育ちは小学校時代、ほとんど京都の嵐山、山科で過ごしています

その後は小学校の9月に東京に引っ越して、京都は当時共産党の市政と府政だったので、

受験がなかったんですけど、急遽受験をすることになって

付け焼き刃でも麻布に入って、入ってみたら紛争で3年間あんまり授業がないという状況で

それが僕の自己形成につながった時であります。


大学は、映画作家になりたかったということで

あるいはテレビディレクターとかですね

そうするとどういう出身が多いのかというと社会学が多かったんで

まあ社会学に進学して、そしたらちょっと女の問題でつまづいて集中出来なくなったですね

大学院にたまたま通りすがりに声をかけられて行くことになった

っていう経緯です。


もともとは数理社会学で東京大学3人目の社会学博士ではありますけれど

「権力の予期理論」という名作を出版し今でも絶版にならずに

継続的に売れている本ですね



2.大統領選と社会学的背景

大統領選挙は事実上決着した。

11/4日の時点で僕がちょっとした計算をした通りの開票の結果になってバイデンが勝った。

大統領選挙を特徴づけているのが両極化(ポラライゼーション)の動き


民主党支持者と共和党支持者の価値観の共有度合い。

過去20年間の調査結果から読み取れる傾向から、

かつてはほとんどがアジェンダで価値観が共有されていて

若干のアジェンダで価値観が分岐しているという感じだった。


今日では民主党と共和党の支持者に、共通項はみられない。

ポイントの1つめ

 この両極端化とトランプ支持の背後にあるポピュリズムの背後にある反知性主義と言われるもの。

 反知性主義と言われるものについては、感情の劣化と呼んでいるが、

 反知性主義のポイントは、インテリを憎む点。

 インテリを憎むという動きに連動しているいうこと

 これも非常に重要なポイント。


ポイント2つめ

 もう一つ重要なポイントは、楽しさと正しさっていうことで

 4年前の大統領選の時に出した本「正義から享楽へ」に詳述したように

 人は正しいことよりも楽しいこと(カタルシス)。これに惹かれるようになっているという点。


 一般に、共和党という政党への意識は、今後20・30年だが、正しくないけれど楽しい

 それに対して民主党という政党への意識は、正しいけれど楽しくない。


これは日本の民主党も同じで

岡田克也が代表の時ぬ、岡田克也に「あなたは正しいけど楽しくない」と言ったところ

彼は「正しいことを言い続ければきっと伝わるものなんだよ」ということがあった

(全然話が通じなかった)

そういう意味でリベラルの人たちが頓馬で鈍感。

正しければ、伝わると思っている。

それは今日ではありえない、

どうしてありえないのか。

どうして両国化が進むのか

どうして反知性主義化が進むのか

これらは全部同じ原因による。


それは共通前提が消えたから


共通前提が消えた理由は

人々からtogetherが消失し感情の働きがなくなってしまった


togetherであれば意見が修正や修練などが行われ

意見が違っていてもこいつは良いやつだってというふうに思う

となるが、この感情の働きがなくなってしまった


どうして共通前提が消えたかのいうと、

アメリカの場合には

80年代後半からのケーブルテレビによるマルチチャンネル化

そしてインターネット化の加速


キャスサンスティーンのいうところを

観たいものしか観ない

会いたい奴としか会わない

そういうチェリーピッキング(いいとこ取り)

こうした現象が進んでしまった


こういう状態になると

マルチ化したチャンネルとかWebサイトはピンポイントで

人々の感情のキャッチャーミットにボールを投げるので

どんどんどんどん分断され極端化していくということが起こる


その結果、キャスサンスティーンやジェームズ・フィッシュキン

が言っているように、「ラウドマイノリティ」声だけでかい少数者が

議論を引きまわすっていう方向にもなっていくっていうこと


さらに社会心理学的な規定を言うならば

人々が分断され孤立すると不安や不全感で

連帯することができなくなってしまう。


そうすると、感情の処理が出来ないために

帰属処理、つまり「こいつが悪いんだ」っていう風に吹き上がる

そして悪魔化とも言うが

「こいつらとは絶対にコミュニケーションが出来ない」

「コミュニケーションしたらその時点で負けだ」

のように。


これの例として、ヒラリークリントンと話し合うかどうか

ということをめぐり共和党支持者が吹き上がったことは既知の話


こうした帰属処理が生じると、話し合いでは収拾をつけることは出来ない

ということになってくる


Togetherがなくなり共通前提が消えるとそういうことが起こる。

その共通前提の崩壊の一つはマルチチャンネル化、インターネット化ということ。


何事も物事の原因たる背景がある。

アメリカの場合にはそれは郊外化(Suburbanization)。


それは特に

1982年のレーガン大統領の当選以降、アメリカはほとんどの州が

レッドステイツつまり共和党支持州か、

ブルーステイツつまり民主党支持州か、

ってことがほぼ固定されていて

五大湖周辺のラストベルト以外は、ほとんど大統領選挙も左右できない状態


基本的にラストベルトにて今回も最後まで人口密集地のほうで

票が開かず一部の人はハラハラして既決を見守っていたということ


郊外化が生じると何が起こるか

郊外化進むと、毎日、コミュータトレイン(通勤列車)に乗って都会に出かける

この人たちは基本的に労働者

従って、資本による労働分配率をいつも気にかけなければいけないし

労働に関わる様々な労務管理の諸制度、その他社会保障の諸制度

を気にかけなければならない


つまり郊外化が進行したところでは、民主党支持者が増えざるを得ない

なぜかというと、民主党は自治よりも再配分を含めた政策的な措置を重視する政党だから。


もともとブルーステイツだった過去40年間の五大湖周辺では

製造業が事実上、崩壊してしまったせいで大量の失業者と心を痛めた人が誕生することになった

この労働者たちが、トランプによる「 Make America Great Again(アメリカの古き栄光の時代戻してやるぞ)」

このメッセージに惹かれて、大統領選挙の時には、トランプに大量に流れて

かなりの差で、トランプがラストベルトで当選するということになった。


これらの人たちは、昔からレッドステイツだったところとは異なり

いわゆる拡散的確信犯的な、いわゆるエクストリームではない

簡単に言うと「昔はこんなじゃなかった」こんなはずじゃなかった」

こんなはずじゃなかった感に苛まれている人たちなので

トランプのメッセージ惹かれた


しかしトランプはある種、しヘタを打った

コロナ対策で「マスクなんかするか!」という形で、あの連邦最高裁のお披露目会で

二十数人が一挙に感染した


労働者達はtogetherで仕事をするもの。

上記のコロナ騒動などに畏怖して、バイデンに流れた。


五大湖周辺っていうのは、前回の大統領からは

いわゆるスイングステイツと言われているが、今回もしコロナがなければ

間違えなくトランプが当選しているはず。


コロナがあったために、やっぱりトランプにリスクを感じ取り

たまたまスイングしただけだが、スイングステイツにて、今回、バイデンが勝った。


反知性主義について触れる。

これは非常に重要な問題で社会学でもまだ誰も分析していないことだが

これもtogetherであるっていう事に非常に密接に関係しているだろう考える


これは後で詳述するが、例えば、当たり前のことだが

Togetherでいて、インテリがノンインテリのお世話になるようなことがあると

お互い傷ができる


僕は小学校時代の6つの小学校に行った

僕がヤクザの子供達を助け、ヤクザの子供達が、あるいは部落の子供たちが

僕を助けるという構造(スタイル)が出来上がっていたので


引っ越した次の日には学級委員になり

ヤクザの勢力を背景として、夜の無法なこともした


そういう関係性は、簡単に作ることができる

喧嘩が良ければ喧嘩の強いやつとお友達になれればいいし

英語で来なければ英語できるやつとお友達になれればいいし

頭が悪ければ頭の良いやつと友達になればいい

というただ、それだけの話。


リカルドの国際貿易理論というわけではないが

比較優位の仮説に基づいて、後は仲間と分業体制で臨めばいいだけ


何もかも出来なきゃいけないと思ってる時点で明らかに感情が劣化している

このような感情烈火状態になると、やっぱり自分に知的な劣等感のある人は

知的な人間を妬み僻み嫉む。

そうした現象が生じてしまっているということ。


あと社会が複雑になると、社会をハンドリングするための知的の営みは

どんどん難しいものになっていく。


自分たちの頭ごなしに決まってるんじゃないかという疑惑が広がり

陰謀論も広がっていくということもあって、やはり知的な存在を憎む

という営みにつながっていくことになる。


このあたりの一部の議論は、ナチス化の原因を突き止めた研究、

特にフロムと、アドルノの研究。

フロムが権威主義的パーソナリティという概念を作り出して

その後、アドルノが権威主義スコア、「Fスケール」っていうのを作り出したわけだが

誰が、権威主義化するのか、誰が知的な存在を憎むのかということは

すでに分かっている。


大統領選挙をめぐる一連の事柄は、社会学的には何の謎もないこと

そうなるべくしてなっていると考えられる


さっきのパラメーター。なぜ人々がTogetherでなくなったのか。


ロバート.D . パットナムの「孤独なボーリング」という著書があるが

ボーリングアローンで有名になった概念がソーシャルキャピタル

人間関係資本という概念


人間関係資本を頼らなくなっていく、換言すると人を頼る代わりに

システムを頼るようになっていくっていう傾向がどんどん広がっていくということが

基本的には共同体的空洞化や感情の劣化の原因にもなっている


3.日本の共同体空洞化

僕は映画批評など通じて、あるいは28年前の「制服少女達の選択」という本に書いていることだが

日本の場合の共同体空洞化ってのは2段階で生じていて一段階目は60年代の団地化、新住民の誕生。

しかしまだ新住民はマイナーだった

僕は新住民の子供ということになる。


そして80年代の二段階目の郊外化

これは団地化かではなくてコンビニ化。

これが本質的で新住民がメジャーになった


その結果、まず環境の浄化が生じた

遊具の撤去、屋上の封鎖とか放課後、校庭のロックアウト、焚き火の禁止、いろんなことが起こった

暴力団の組事務所廃止運動 自動販売機エロ本廃止運動とかが挙げられる。


これらの運動に対して僕は全て基本ネガティブである

なぜかというと、それは新住民の吹き上がりだから。


例えば花火を横打ちするのが当たり前だった

しかし、危険だからやめる。

危険遊具もそう、危険だからやめる


感染ミメーシスあるいはアフォーダンスの観点から言えば

身体能力のすごいやつとか危険な遊具って

子供たちの言外法外損得外のシンクロ能力を高めるために必須なんだが

それもどんどんどんどん撤去されるって事になった


何よりも新住民って疑心暗鬼の人たち、被害妄想の人が多いので

夜まで遊んではいけませんとか、よそん家でご飯食べちゃいけませんとか

よそんちの子をお家にいえるのは嫌という風になっていった。


このようにして80年代を通じて日本だけでなくて

先進各国で共同性(communality )消えていく、その結果共通感覚、共同身体性も

消えていくってことが起こった。


マルチチャンネル化やインターネット化に先立って

上記のような状況の変化が存在していて、それがパラメーターとして

随分効いているであろうというのが僕の仮説になる


ここまでが、大統領選挙に関わる社会学的な比較的オーソドックスな背景となる

そうした分析をしてる人が日本にもアメリカにもいなくなっているのは僕に不思議ではならない



4.AIについて

4.1 人間の知的な劣化

ここからはAIについてだが、まず人間の知的な劣化について話す。

上記で話した新住民化による共同体の空洞化、これによる共同新体制や共通感覚の喪失

これによる人々の分断と不全感や劣等感の増大を背景にした釣り堀的フィッシング、

感情の釣りの増大という流れは、ある種、事故なのか、それとも必然なのかについて話をする


答えは必然である。


なぜかというと100年前にマックスウェバーが既に予言しているから。

今年は、マックスウェバー死後100年目。


マックスウェバーの予想について説明する。

マックスウェバーの議論には、没人格化という概念がある。

これは僕のククズ化という概念に相当するもの


同じくマックスウェーバーには、鉄の檻化という概念がある。

これは僕のクソ社会化という概念に相当するもの


では、ウェバー予想の中身について説明する。

複雑な近代社会は行政官僚制なくしては成り立たない。


行政官僚とは、つまり役人とは何かと言うと

予算と人事の最適化のためにそれだけを目指して動くロボットである

いわゆるボットのようなもの。

つまり没人格。


性能がよければ誰でも入れ替えられるような存在ということ

これは政治と行政との関わりにおいては必要不可欠なこと

役人は予算と人事の最適化をめざすポットでなくては困る。


しかしそれ以外の価値観が存在しないので、どうとでも暴走する、

ポジションがとれる方向にどこまでも向かうので暴走は止まらない。

しかし暴走を止める役割が政治家だ

政治家というのが求められる資質が違う


基本的に言葉・法・損得の枠の中でとどまることで最適化ゲームを行う官僚とは違って

政治家はいざとなれば、法を踏み破っても、あるいは自らが

血祭りにあげられようとも、愛と正しさのために全力を尽くす存在

これがウェバーの考え。


従ってウェバーはそこに関連して政治責任論を展開したが

いざとなれば法を踏み破って人を助けようとして

社会を救おうとしてしかしその結果、失敗してしまえば血祭りにあげられる、そのことを承知とするのが政治家、故に政治家の倫理は結果倫理。失敗すれば血祭り、それで終わりそれで良いとする考え。


それに対して市民倫理は法を守ることである


市民と間違って、政治家は法を守ることに意味があるようなプラットフォームを守るために法

を破るそういうそういう存在。


マックスウェーバーはプロイセンを活動の出発点とした学者だった

しかし当時は

独裁的行政官としてビスマルクというのがいた。

ビスマルクがそういう政治家の役割を果たしていた


ビスマルクの後

どういう人材が政治家になるか分からない

どうすればいいか

ビスマルクが生きてる間にドイツを国民化する


「ドイツを国民化する」について

基本的に、資本主義的文明社会では、人はクズ。


言葉や法や損得に閉ざされた存在。


行政官僚というのは市役所だけにいるわけではない

大学にも行政官僚は必須、一般企業にも行政官僚は必須

行政と言うと、日本の場合のアドミニストレーションと、英語のadmirationは違う


英語的な意味でいうと、行政官僚制も行政官僚的なメンタリティを持つ者も

社会の隅々にまで必要。


つまりポットが社会の隅々まで必要ということ


もちろんドイツ国民ももう大半がボット化しつつある

しかし国民である限り

自分達はクズでも、政治家はクズではいけない

クズではない人間を見極めて、それを選ぶ力が国民になければいけない


そういう力を国民がもつ必要があるが、

あの日本やアメリカを見ると思う国民化が崩れている


ウェーバーによると、近代化とは合理化。合理化とは世俗化。世俗化とは手続き主義化。

なぜ手続きか。つまり行政官僚化するかというと、計算可能だから。

計算可能であると予想可能性が上がって、それ故に社会が複雑化できる


例えばどこに投資すればいいのかということもよくわかる

その結果、金のめぐりもよくなる。そうすると経済も豊かになっていく

という風にして社会は複雑化し

いわゆる広い意味での行政官僚が跋扈(ばっこ)し、官僚制的なものが広がり

ボットだらけになっていく。


さて、ウェバー予想になかったこと

それは、国民全体がボット化していく中で

その国民が、自分たちがクズだとしても、政治家だけは

クズは選んじゃいけないっていうふうに思うということがありうるだろうかってこと

どう考えたってありえない。

国民と政治家、政治家も国民なんだから

国民の生育環境と同じ生育環境で育つわけだから。

なぜ特定の人材が存在してそれが一般国民と違うクズ化から遠く離れた存在でありうるなんてことが

ありうるだろうか。

ありえない。

ウェバー予想が意味していることの本質は、クズ化。


つまり、

言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシン化した国民から

まともな政治家が出なくなっていくということは必然だということ


これを食い止める道は、ミクロは別にして

マクロには存在していない、というのがおそらくウェバーの考えであり

そして僕の考えでもある


鉄の檻化というのは、わかりやすく言うと手段と目的の転倒。

計算可能性は自分たちの自由を増すために存在してるはずだが

計算可能性の外側に出るとポジションを失うという風になる


そうすると計算可能性の内側に閉じ込められるしかないような

セッティングの中に生きることになる

資本主義を立ち上げる時には資本主義の精神が必要で

資本主義の精神をプロテスタンティズムの倫理が提供した

こういう理論。

しかし、書いてある1回資本主義が回り始めると資本主義の精神はもはやいらない

何故ならば資本主義のシステムから外れれば野垂れ死ぬからだってこと

システムが起動する段階で必要なリソースと1回回り始めた時に必要なリソースは

全く違う


1回回り始めた時に必要なリソースはいらなくなる。つまりこれが鉄の檻化。


どうして不要になるかと言うとシステムが回る限り、そのシステムから外に出ることは

野垂れ死にを意味するから。


つまり外が消えるということ。これが鉄の檻化ということ


昨今の感情の劣化と思っていることは民主制の劣化というよりも

もっと本質的な問題で文明論的な本質だということ


近代化=合理化だと言ったが、合理化は

文明化=大規模定住化とともに始まっているので

どのみち宿命づけられていたと考えるほかない


4.2 言葉と法

ここからだんだん人類学の話に入っていく。


まず最も重要なことは、言葉と法がいつ誕生したのかということ

まずウェーバーの定理の近いところから言うと

行政官僚制が誕生したのは3000年前


3000年前は4大文明が揃って統治権力と神官とを持つようになった時代


行政官僚制の誕生は、初期言語、文字の誕生と同時

神官が使っていた。行政官僚が行政業務のために

文字を使うのは3000年前からのこと


なぜ文字が必要かというと音声言語を書記言語を比べてみると音声言語は近くないと届かない

それに対して書記言語はまず遠くに届く

劣化しないで。記憶を外部化しているから

あともう一つは、時間的対応性がある

書いた人が死んでも残るということ

このような広域化と遠隔化が文明化、大規模定住化にとって不可欠なので

初期言語を行政が利用するようになったところだけ、文明化が行われたということになる

これはクリアな図式なのでわかりやすい


次に

言語の歴史の中に書記言語、書き言葉の誕生を位置づけてみる

歌と言葉の違いはどこにあるか

歌は悲しい歌を歌えば悲しくなる楽しい歌を歌えば楽しくなる。つまり直接性がある

でも言葉はそうじゃない

悲しいという文字がそこに書いてあっても悲しくはならない

喜びについても同じ。

直接性が存在しない。だからそれをロゴスという言っている。

モーセ五書の最初創世記に最初に言葉ありきの言葉、これはロゴスのこと

このロゴスは直接性ではなく間接性である


感情が動かされない、ロジックで動くことですよねということ


言葉は文字がなくてもね伝承による蓄積性が歌よりも高い

情報を沢山収容できるので、ネアンデルタールは9世紀から外に、上に進化できませんでしたけど

我々だけがですね氷河期を通じて旧石器時代から新石器時代に移行できた


同じように命令を背景にする支配服従をベースにした組織の関係の複雑化も

いわゆる歌とは区別された言葉がないとできない


歌は軍用的な編成を複雑化するツールとして、使うには貧困すぎるということ


さて、我々は長い間、ロマンヤコブソンの言うところの詩的言語を使っていた

ポエティックlanguage、詩的言語を使っていた。


一方、散文言語、これはロゴスに相当するもので、エリートだけが使うという風に考えられていた。


我々は長い間、散文がロゴスで暴走しないようにして

詩的言語の中核は換喩(メトニミー)と隠喩(メタファー)

一般に神話的思考と言われるもの。

神話的思考の中核はメトニミーとメタファー。


我々の初期の言語仕様は、詩的であると同時に、神話的であったということになる


3000年前から急速に社会が大規模化して大規模定住社会化、文明化をすることになった

ジュリアンジェインズ、あるいはエリック・A・ハヴロックという人が

言語から意識が生み出されたと言っている。

意識。再帰的反応のこと。

再帰的反応とは、反応に対する反応という意味だけではなくて

その再帰的なプロセスを累積できる

反省に対する反省に対する反省に対する反省、入れ子式に膨張すること

ができる

これが意識の働き。


従って意識の働きは基本的にはラグ、つまり時間的遅れを伴う


反射:リフレスクス、再帰:リフレクション

全く違う

反射は時間が短い

再帰はラグを伴うということ


その結果

我々は意識を持つようになり

反省の能力をもつようになり

その人に伝えることができるようになる

これも実は

文字の働きの結果だということ


1回自分が書いたもの。それを何度も見る。反省してまた文を付け加える

それを見る。反省して、付け加えた文をさらに反省して文を付け加える。

これはかなりのラグを伴うが、その結果いわゆる洞察が可能になる。



プラトンは初期から後期にかけて変節を遂げている

初期は詩人を褒めたたえていた

後期になると打って変わって鉄人君主を褒めたたえ

詩人を徹底排斥せよと言うようになる


プラトンの変節が何を意味するかは

エリック・A・ハヴロックのプラトン序説という本の主題


結論はアテネの全盛期には

まだ人口が少ないっていうこと

あるいは戦意高揚的にいつもトランス状態で沸き立っていたということ

それをベースにして、共通感覚、共同身体性があったということ


言葉の思料が3000年前から、統治のための道具に変わったっていう話

それによって

あるやつをやるようになった

ということ


プラトンが言っていることは「めまいから洞察」

小規模の社会ではめまい

共同的なめまいによって戦争に向かい

共同的なめまいによって民主制をまわす


しかしそれはできなくなったので

めまいよりも洞察。

のちにジャンジャックルソーに非常に大きな影響を与える洞察


このようにして社会が

めまいから洞察力になると、当然、知的エリートが出てくる

鉄人君主とは、知的エリートを褒め称える言葉。

という風になった


これは明らかに不自然な営みである。


なぜかというと我々のゲノムベースは

そのような営みに

ふさわしいようにはできていない


我々のゲノムベースは基本的には変性意識を人類のサバイバルツールとして

非常に重みづけしている


だから例えば感染(ミメーシス)生じるし、アフォーダンスも生じるということ

だからこそ我々は大規模定住化にも関わらず各ユニットごとにお祭りをやってきている


定住化とは何かというと長いスパンで計画を立てるということ

長いスパンで共同作業をするということ


ストックを保全し継承し、分解する必要があるということ

これが三つの要求から出てきたのが、「法」である

それまで法に従う生活はなかった

大規模定住農業社会で人は法に閉じ込められるようになった


しかしこれは不自然であるので定期的にお祭りをやった

お祭りの目的あるいは機能は定住以前の身体性の回復。


もともと我々が持っている新体制を確認することによって

定住がなりすまし(プリテンディング)である事を確認することになった

なのでお祭りでは、タブーがノンタブーと逆転した


お祭りの時には被差別民が呼ばれた。

被差別民が差別される理由は、定住の意識的意図的な拒否である

なぜ拒否したのかというと自然な生き方ではないから。


それなりに彼らの気持ちが分かる、理が通るがゆえに定住を拒否した

一連のクラスターは差別されて被差別民になった


被差別民は非定住民ではあるが定住民の存在を前提にした

アンチテーゼであることが非常に重要なこと

このことは柄谷行人しても論じている。


誘導民ではなくて非定住民、反定住民であるが故に

差別されたというところがポイント


さてお祭りになると、非定住民、反定住民が召喚される

なぜ召喚されるか。それは彼らが定住民が普段使わないが故に

劣化させている身体性を取り戻させてくれるから=めまいを媒介してくれるから。


芝居踊りあるいは性愛などを通じて、忘れかけていた身体性を取り戻す

しかしお祭りが終われば用済みなので排除される。


それと関連して言うとアニミズムも大事


我々は定住社会を営むようになると

生存戦略と仲間意識が重要というよりも法を守ることが重要になる


その祭りではない定住の生活では、簡単に言うと、社会に、法に、損得に閉じ込められるので

我々にとってはその社会の外の重要性が減る

具体的に言うと人と人でないものを区別するようになる



なりきりがゆえに

しかを取るときにはしかになりきりがゆえに

クマを取る時にクマになりきるがゆえに

なりきりは愛にとても近い態勢であるが故に

やりすぎができない


なのでオートマチックに制約がかかるようになって

生態系的なバランスを考えていたということで

それは森に無理に申し訳ないとか

動物に申し訳ないという気持ちを伴うものだったので

基本やりすぎがなかった

法による制約があったわけじゃない

言葉による制約があったわけではない

感情の働きによる制約があったという

それを支えていたのがアニメスティックな感受性ということ。

つまりなりきりがバランスを可能にしていたということ


4.3 AIと天然知能

日本ではこの2年間ぐらい

郡司ペギオ幸夫さんの「天然知能」、「やってくる」とか

新井紀子さんの「AI vs 教科書が読めない子どもたち」に象徴されるように

人間の知的感情的劣化に触れた著作が出てきている。とても良いこと

それは僕がいう感情の劣化に照準している


例えば、郡司ペギオ幸夫さんは天然知能という言葉を使う

天然知能は、人工知能と自然知能に対立する概念です

人工知能は演劇を中心とするifthenプログラム、条件プログラムに従う思考。

自然知能はは、例えばディープラーニングからの機械学習に相当する知能です


人工知能は演繹的で自然知能は機能的。

我々は、天然知能が非常に人間的にユニークな実態であるにもかかわらず

それを忘れていることは問題だ。


天然知能とは何かと言うと

まあこれ「やってくる」という本でさらに詳述されているが

基本、未規定なものに開かれる

それだけじゃなくて

未規定なものに誘惑される

未規定なものに侵入されて

感染してしまうという

態勢のことを言っている


ASD(Autism Spectrum Disorder:自閉症スペクトラム障害)

これが一人口の1割だって

意味も考えられていますけど

例えば、みんなが危ないから行くのやめようって言うと

「危ない?だったら俺は行くぜ」

みたいなタイプ。


条件プログラムに閉ざされない機械学習に閉ざされない

みたいなものに侵入されるだけではなくて誘惑されて前に進むこれが天然知能です


さて「やってくる」っていう本では


基本、指し示しにおけるシニフィアンとシニフィエには対応関係はない

本質的には対応関係がない。というのが郡司さんの見立て。

シニフィアンが実態としてあるとすると

シニフィエはいつも過剰か過少。


しかし我々凡人は

そこにコンテクスト、文脈があてがわれることで

シニフィエが決定されると考えている


しかしそれは間違いだっていうのが郡司ペギオ幸夫さんの見立て。

実際にはシニフィエの

過剰あるいは過少いっこうに改善されない

意味は決定されない。

では何が起こっているかというと、

その隙間、僕の言葉でいうと世界が訪れる

郡司さんの言葉だと「やってくる」。


未規定な何かがやってきて

それで隙間の存在、あるいは過剰や過少が

どうでもいいものとしてやりすごされる



フレーム問題は、はやくから

シニフィアンとシニフィエの不整合に着目しているし、文脈で決定するというアイデアをもっていた

だがしかし、文脈とはどこまで文脈なのか

文脈の意味を規定する文脈はどうするのか

文脈の文脈の文脈の文脈の文脈の。。。。と考えていると無限に時間がかかってしまうので、

洞窟の入り口に置かれた爆弾を撤去するために派遣されたAIが永久に何もしない

ということが起こる。これがフレーム問題。これが必然である。


あらかじめ人間が参照するプログラムを予定していないとフレーム問題は解決出来ない


さて、人間は解決できる。

なぜなのかこれがスペンサーブラウンの形式の法則という本の基本的な主題だと僕は思っている

指し示し=インジケーション、これを紙に囲いを書く、これが指示だ

しかしどの紙に書いたのか、それが問題になる

なので、この紙に書いたっていう風にして

もう1回囲いを書く、しかし囲いを書いた紙はどの紙なのか?

つまり全てのインジケーションは囲いであるがゆえに

囲いの囲いの囲いの囲いの囲いの。。。

無限回の指示を必要としている

無限回の指示は、無限の時間を必要とする

しかし我々は現に指示を意味あるものとして

つまり実際ににインディケーションとして受け取っている

なぜかそれは

無限の囲いが書かれざる囲いとして

機能するからだっていうのがスペンサーブラウンの結論


僕の解釈では書かれざる囲いに至る無限回の試行、

実際には僕たちはそれをしていない(すでにわかっている)


無限回の思考の相当物が指示をした瞬間にあるいは指示をする直前に

まさに郡司さんのいうように「やってきている」。


こう考えるといわゆる「ロゴス」に対する「レンマ」



無限時間かかるから書かれざる囲いを書くというオペレーションが

オペレーション以前にオペレーションを一切行う前に

全ての前に「やっきている」。これがスペンサーブラウンの形式の法則における

解決だと考える宮台解釈ということになる。


さて、

我々は郡司さんによると

天然知能、つまり「やってくるもの」に開かれてることによってレンマ的な知性を働かせている。

レンマとは、無限回の営みを「常に既に」終えていることになるという、先取りされた

規定不可能な無限性=全体性


AIにそれができるか

それは原理的には出来ない


それはオントロジーの解決可能性と、一般的には言われている。

オントロジーっていうのは存在論

存在論とは、世界はそもそもどうなっているか。である


世界がどうなっているかは、我々は一応知ったつもりになっているが

インダクティブな機能的な学習によって学んでいるわけではない


従ってAIには文章題は解けない

そういうAIが合格できるような試験、に受かった人間達がやっている

仕事は基本、AIに置き換え可能である


この連中がDI(basic income)で食うしかないという結論になる。

さて、大事な問題がどこにあるのかということだが

原理的にはAIは人間には届かない

何故か。天然知能がないから。


しかしAIは人間を模倣することは出来る

それは機械学習やビッグデータの組み合わせで人間は多くの場合

この辺はこのようにするという、天然知能に基づく人間のふるまいを

インタラクティブに機能的に学習することができる

従って、ファンクショナルには人間には届かないけど

人間が接する時には人間よりも人間的だ

まさにmorethanhumanっていう風に感じられるようなAIを作ることは簡単


既にもできていると言っても構わない

そこがポイント。


AIは原理的にはまだ当面、人間には届かない

しかし届かなくても天然知能に基づく人間の営み係る機械学習を進めることで

擬似的なシミュレーションをすることができ、我々が有限時間で何かあるいは誰かと

接する時には、AIのほうが人間的だということは十分にありえる


機械学習の初期設定は人間が作るわけですよね

僕がもし作るとすれば、感情的に優れた人間のある天然知能に優れた人間の営みを

機械学習するように組むだろう


AI技術者の夢はaiを人間に近づけること

没人格=クズに近づけることでない


そうするとどのみち遠からず人間よりも人間的なAIが登場し

それが我々の相手をし、更にそういうAIがレイ・カーツワイルのいうように

マクロな政策的政治的な決定に携わる方がバカな存在が政策的な決定をするよりは

ずっとマシだ。トランプが決定するそれに従いよりずっとマシだという風になるだろう

つまり多くの人間は用済みになるだろうということ


感情の豊かな人間は、感情の豊かなパートナーを必要とする仲間を必要とする

その時に人間を選ぶだろうか。

クズな日本人よりもまともな中国人の方が友達にしたいだろう

クズな日本人よりアメリカとロシア人や韓国人のお友達にしたいだろう


まともな人間はクズな人間よりも

まともなAIを相手にしたいと思うのではないだろうか


なら感情的にクズな人間は基本的にパートナーを見つけることはできなくなる



5.ふりかえり

アメリカ大統領選挙の話をしました

背後にあるのは感情的な劣化

その感情的な結果をもたらしたのは

郊外化を中心とする産業構造の変化による社会の変化


問題は非常に必然的な流れであるってことで

ウエーバーを参照し

近代化とは、大規模定住化とは、それは必ず合理化を必要としていて

合理化とは、計算可能化なので行政管理を大量に生産しないわけにいかない。


社会の隅々まで計算可能な営みにインする

言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシンが広がるようになる


そうした状況を見越している人間たちから特異点っていう議論もでできた

それは今日、現実的になりつつある。

どういう意味かというと、ということで天然知能の話をした


没人格化したクズ化した人間が簡単にAIに置き換え可能である

置き換え可能ではないのは、天然知能を発揮する人間である


しかし

その天然知能を発揮する人間が、だんだんいなくなってきている可能性がある

そうすると天然知能を発揮している人間の非合理的な営みを機械学習する

そういうAIが人間の代用となっていくだろう。



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