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YMCA×宮台真司「社会という荒野を仲間と生きるーイエス編」  (約1/4文字起こし)

更新日:2021年7月5日


※映画「聖なる犯罪者」「エンド・オブ・ウォー」「パッション」

 を鑑賞された上で、この文字起こしを見られることを推奨します。

 

■sakataさん

では皆さんこんにちは改めましてこんにちは

ではちょっと宮台さんが来られてないんですけど

「社会という荒野を仲間と生きる」イエス編ということで

始めさせていただきたいなっていう風に思います


Zoomでご参加の皆さんは

マイクオフ・カメラオンでご参加ください

何かあればチャットで質問

コメント等受け付けております


もう一度あのZoomの皆さんには確認になりますが

今日イエス編ということで5時~9時まで予定しておりますと食事休憩をはさみまして

前半第一部と後半第二部ということで進めさせて頂きたいなという風に思います


今回映画を事前にお伝えをしております

先程を聞いた感じで行くとほぼ皆さん全部見て頂いたってこと

なんで今回3本ですね

聖なる犯罪者と

エンド・オブ・ウォー と

パッション

見て来て頂いてると思います

宮台さんもう少し時間がかかりますのでそれまでにブレイクアウトルームを行うします

そこですね今回はファシテータっていうことで。

過去の宮台ゼミに参加していただいたり今回の事前ミーティングに

参加していただいた方を中心にファシリテーターをお願いしておりますのでその方を

まあリード役としてブレイクアウトルームで是非どんな印象を持ったか

映画についてどんな感想を持ったかとかそういうあたりを共有していただければなって

いう風に思います


今日話す内容については事前に打ち合わせをしていて

ある程度内容は決まってるものがあるんですけども皆さんからの感想ですね

どんなことを感じたかっていうことを参考にしながら組み立てていきたいなっていう風に思います


ファシリテータの皆さんにお願いですが全体に15~20分くらい時間を取りますので

それでも5人ずつくらいになると思うんですが5人ずつになると1人2分喋っても10分入ってしまいますのでタイムコントロールだけは厳格にして頂いて2分くらいで切って頂いた方がいいかなってます

2分ずつお話をして残り5分ぐらいにフリーでディスカッションする

っていう時間にしていただければなっていう風に思います。

どなたかメモをとって頂いてブレイクアウトルーム終わって帰ってきたら

そのどんな内容だったかっていうのチャットに貼って頂くような構成にしたいなって思ってますので

よろしくお願いします。

ブレイクアウトルームを作りますのでお待ちください

何か話し今までのところで質問とかあればしゃべっていただいてもいいですし

チャットに入れて頂いても構いません


ファシリテーターで今日メールが入ってる人は名前の前にいちを入れて欲しいんですけども

入ってない方いると思うので。


room1 Aさん(参加者)

room2 Bさん(参加者)

room3 Cさん(参加者)

room4 Dさん(参加者)

room5 Eさん(参加者)

room6 Fさん(参加者)

room7 Gさん(参加者)

room8 Hさん(参加者)

room9 Iさん(参加者) 


では映画の感想を中心に15分間時間を取りますのでブレイクアウトルームで

まずあの顔合わせというか自己紹介も兼ねて行っていただければと思います。


グループディスカッション開始

グループディスカッション終了


宮台さん 到着されました

「社会という荒野を生きる」イエス編ということで企画をさせていただきました

開催の案内の方にも書きましたけどもう私が所属してるYMCAではキャンプを古くからやっています

去年100周年ということで宮台さんにお越しいただいてオンラインで講演会をやったのをご縁にこの企画が続いています。


社会という荒野を生きるというテーマでオンラインセミナーをやっていまして、

皆さんの身近でもなんとか実践しようっていうことで社会がどうなっているかとか

現実はどうなんだっていうこと見つめた上で、じゃぁどうしたらいいんだ

ってところに、悩むと言うか絶望するようなこともあるんじゃないかと思うので

宮台さんの最近のインタビューで「イエス」に触れておられることもあり、「奇跡」の話を通じて

我々はこれからどういう風に生きていけばいいのかということも含めて

「イエス」をテーマに話ができればと考えての開催となります。



■宮台さん

宮台真司です。

はじめ方もいらっしゃるかもしれませんが社会学者でかつクリスチャンなんですね

クリスチャンになって12年目か13年目なんですが社会学者として喋れること

信仰者として喋れることを分けたうえでお話しさせて頂こうかなっていう風に思います


皆さん疑問に思われるかもしれないことですが社会学ってナチュラルサイエンスに対するsocialscience

どういうことであるのかなというところもお答えしたいなと思います。


■sakataさん

富田さんお願いします


■Aさん(参加者)

Room1でファシリテータを務めました〇です。

Room1では、キリスト教徒っていう方はいらっしゃらなかったんですけれども

共通していたのがダニエルっていう存在について話を展開しましたダニエルの猟奇的な存在と言うか

善とも悪とも言いがたい存在にすごい魅かれたっていうような意見がありました後はその映画の中でも

牧師さんの説明でもあったかと思うんですけど祈り続けるっていう事のその難しさだったり

その逆にその重要性だったりとかその日々教会に通っていたはずの

その人でさえ事故を起こしたドライバーのその奥さんに酷い手紙を送ったりとか

そういったことをしてしまうので祈り続けることの難しさとか重要性ってのがちょっと話が出ました

すいません簡単ですか

以上です


■宮台さん

質問していいですか

今、おっしゃって頂いた村人たちのある種の浅ましさ、あるいはセコさ。教会に通っているのに。

そういったモチーフによってこの映画が何を表現しようとしていたと思われますか

それは議論されませんでしたか


■Aさん(参加者)

そーですね

ダニエルの存在が来るまではその村が分断されていたと思うんですね

事故によって葬式ができなとかダニエルというイリーガルの存在があったことで

その村が変わったっていうことがあると思うんですけども人間はそのすぐ忘れる動物だという

ふうに思ってましてその今回そのダニエルによってその軌跡がもたらされた村であっても

奇跡っていうのはその指示できないと思うんですね

そのだからそういった奇跡感じだとしてもやっぱり日常生活を送らなければいけない

ただその奇跡を忘れないためにもどこかでその自分達に奇跡が起こったんだっていう

ことを確認する手段としてその祈りっていうのがすごい重要なモチーフなのかなっていう

風に思います


■宮台さん

今は、前座として行っています。

前座としてやっているので、少しずつ小出しにしますけどダニエルはイエスの再来

つまり再び訪れたイエスのメタファなんですよね今のお話のとの兼ね合いで言うと

時々イエスは再来しないと人はただひたすら信仰者であれ劣化し続けるのだ

ということが示されているのですね

次のグループお願いします


■Bさん(参加者)

僕たちのミーティングで特に僕が話したのが3本を並べてみたときの

時代による求められるリーダー像の違いという視点で見てそれではこれも僕個人の意見なんですけど

やっぱし一番共感できるリーダー像という側面で見た時にやっぱり聖なる犯罪者が一番リーダーとしては共感できて逆に言っちゃえばパッションのキリストが一番共感できない存在

できない存在ではあるんですね。

ダニエルにちょっと否定的な方の意見もちょっとあったりしてそのダニエルがどう映るかの

認知の違いの置き方にはちょっと興味が湧きました

以上です


■宮台さん

なるほど何となくダニアルを否定する方のイメージは分かります

ちなみに僕がこれはカトリックの聖職者に何人か見せてその聖職者たちは

無条件で絶賛しているなぜかということを話すと要するにイエスって、犯罪者なんですね

なぜかというと。

ユダヤの法は、戒律、立法ともいいますが立法はつまりは法律なんですね


イエスは祭壇で酒盛りしたりするということからもわかるとおり、

あるいは戒律が否定する娼婦を持ち上げたり、あるいは戒律を守っている者よりも

そちらのほうがずっと神に近い存在だって言う事によって犯罪を肯定した人なんですね

つまりイエスはは犯罪者であることが非常に重要なこと

まあ分かりやすく言うと

イエスは自分をパリサイ派、当時の主流派と自分を自己否定していたにもかかわらず

だからこそって言ってもいいのかなイエスについていく少数の人。

イエスは犯罪者であるという多数派に分かれたんですね

なので、ダニエルが犯罪者であるっていう設定は実は彼はイエスの条件を満たしている。

事実上、犯罪者がイエスが再来する条件であるのだとうことを言っているということ

もともと教会法は宗教法で宗教法はいわゆる法律とは違う掟です

例えばカトリック

教会法、分かりやすく言うと世俗の法。プロファニティにおける法

において犯罪者であれ、宗教の掟、宗教法においては犯罪者にはならないっていうふうに、再定義するところにもともとポイントがあったんですね

そういうところからも

ダニエルというこの映画の設定の意味が分かりになるだろうと思います

カトリックの僕が尊敬する神父たちの多くも実は教会法がね世俗の法と同じような意味を

たとえ聖職者に対してであってももってしまっているという堕落頽落の状態

それを暗に批判する映画になっているということがポイントなんですね

この映画の中で皆さんも覚えてらっしゃると思うけど

前科者はね

聖職者、司祭になれないって言っていますね


キリスト教の教会が世俗の社会で生き残るための方便として採用した

本来は宗教法の内在的な視点からいえばどうでもいいことですね

世俗の法で犯罪者であろうがあるまいが宗教の時空間で肯定されるべき存在であるのかどうかということが世俗とは無関係に決まるのだそのことがこの映画の中で表現されている


■Bさん(参加者)

ありがとうございます


■sakataさん

あともう一人。


■Cさん(参加者)

今回初めて参加させてもらうんですけれども映画を見させてもらって

私個人の感想なんですけども映画3本とも社会から疎外されてる人間が主人公で

その阻害されてる人間が良いことを行ういう物語だと思うんですけど

聖なる犯罪者に関して言えばニセ神父の恰好をして

地域にいる人々を救うという話だと思うんですけれども私の率直な感想としては

その村にいる民衆の人らの気持ち悪さがすごい今の社会につながってるなっていうのを感じて

主人公に否定的な方がいることもおっしゃっていた方もいたんですけれども

私の場合は逆に主人公というよりも村人達の気持ち悪さがすごい感じたなと。


■宮台さん

どうして気持ち悪いと感じられましたか


■Cさん(参加者)

社会で疎外されてる人間を全員で仲間ハズレににするっていうか

加害者の一人の家族だけのけ者にするっていうような形があって

阻害してる人らは自分らは正しいことしてるっていう風に思ってるんですけど

都会からきたミセ神父からみるとそいつらのほうがやっていることがおかしいんじゃないか

てことで、みんなに気付かせていく。

社会にいたら気づかない気持ち悪さだと思うんですけど


■宮台さん

その気持ち悪さは僕の言葉で言えば「閉ざされ」なんですね

何に閉ざされているかって言うと

世俗の法における合法・非合法・適法・違法そうした枠組みに閉ざされている。

さきほどのイエスは当時の紀元前の世界で言えば律法な世界に閉ざされていて

律法が命じるからやり律法に書かれていないから一切無視する「閉ざされ」を嘲笑していたんですね。

徹底的な嘲笑ですね

なぜかって言うと

基本に利他に見えて利己

分かりやすく言えば律法に従えば

あれば共同体は救われる誰かが律法に違反して共同体がが救われないじゃないか

例えば簡単に俺は救われないじゃねえか

お前のせいで。

分かりやすく言うとこういう人たちが律法に

従うのは律法に従ったがゆえに神の裁きにおいて

救われたいからだよね

その神に承認されたいから利他的なことをやる人間はクズでしょ

どう考えたって。

そういう風にイエスは律法の自動機械法の奴隷を嘲笑したんですね

それはなぜかというと気持ち悪いからです

その気持ち悪い奴の中でも筆頭がラビ(ユダヤ教聖職者)を名乗っていたり、

あるいはリリビト、祭式者・祭式一族を名乗っているという気持ち悪さに辟易としていたということですよね

「閉ざされ」が気持ち悪い

「閉ざされていない」人間がキモくない。

普通に見えることですよね


■sakataさん

ありがとうございます

では後半でまた映画に話に触れたいと思いますが「閉ざされ」の気持ち悪さってところで

そもそも宗教ってなんなのかということと、

人間が時間をかけて閉ざされてきた歴史があるということ。

社会学的な見地から社会システム理論として神やキリストがどういう風に生まれてきたのか

というところを前半お話頂きたいと思います。


■宮台さん

前座で話していることは信仰者であることとは関係なく

話せることなんですね。

僕の考えではキリスト教というよりもイエスが何をどういう人間たちに対して

なぜか語ったかのかということについては99%ぐらいまではですね

今僕は申し上げたような理屈で言葉の枠の中で理解できることです

つまりロジカルに理解できることですね

宗教社会学は、僕のの専門のひとつですけどもの宗教社会学は

例えばイエスに関わ信仰で言えばロゴスで説明できる部分についてロゴスで説明しきるということを

志す学問なんですね。

※ロゴス:理性・論理・言葉

 

残り1%って何かというとそれは啓示ってことになります

わかりやすくいえば、神から与えられたひらめき。


あるいはいろんな人間があの信仰を選ぶっていう言い方をするけれど

実際には、選ぶ以前に、選ばれた。降りてきた。

何に?神に。

そういう感覚を抱くってことがポイント。

それが残り1%の啓示あるいは啓示という福音。グッドニュースに関わることなんですね


残り1%の話はのちにやるとして最初に99%の話をさせていただきたい

と思うんですね


社会学はいろんな分野はあるけれども宗教社会学いいのは結構、伝統がある分野なんですね。


伝統がある分野であるがゆえに神学者という信仰者であり学者であるような人からは

社会学者は目の敵にされてきたんですね


それなぜか

社会学者から言えば、宗教は社会現象。

人々の集まりの中で起こる現象ですから宗教は世俗的に説明されてしまうわけです

こういう歴史的な段階でこういう社会だったそこで人々はこういう状況に置かれていた

だからイエスが出てこざるをえなかったみたいな説明になるわけです。


これは聖職者にとっては涜神行為。

なぜかというと

聖なるもの、つまりsacred(セイクリッド)なもの、holyなものよりも

世俗のもの、profanity(プロファニティ)、profane(プロフェイン)、

ものが大きいというふうに考える

宗教よりも社会のほうが大きいと考える。


信仰者あるいは信仰者兼学者である聖職者は勿論、逆で、社会よりも宗教が大きい。

世俗よりも聖なるもののほうが大きいという風に考えるわけです


なので社会学者と神学者との間にはたびたび論争が起こってきました。

これは完全に不毛ですね。


信仰というのは世俗の世界からいえば、ある種のジャンプです。




まずは約1/4まで、文字起こし。続くーーーーー。















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