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「芥正彦氏×宮台真司氏 実りなき社会で見る夢は芸術か、テロか」

更新日:2022年11月20日

2022年11月05日

【早稲田祭2022】人物研究会主催講演会 主催      ※本文字起こしの範囲は、公開動画の範囲に限ります。 

             


【Acknowledgments】

I would like to express my sincere gratitude for the opportunity to transcribe this historic conversation。


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Unchain My Heart  1/21~21/21

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■芥さん

なぜ革命家かと言えば、共同体が正義を失ったとき今回は社会や一国の首相が議会政治を全くないがしろにするし司法もグズグズにする。

気にくわないやつは出世できないようにしてしまう。

挙句の果ては自民党内部の自分の意見の 合わない代議士を落選させるために、競争相手を立ててそこに一億五千万もつぎ込んだりするわけで、こんなことがまかり通ってていいはずがなくて若いほどだったら若い人たち君たちの未来に 本当にある程度ちゃんとした。

社会ができるだろうと思ったまま死んでいきたい という欲望あるわけで。

宮台君に負けず劣らず僕もアナーキーで、 突っ切ってきましたから、ただ 殺人は拒否し続けて生きてきたっていうのはあります

というのは僕は選んだのは演劇で、見えない肉体の話で、それを植物的に生物学上に抹殺しちゃうってのは、演劇ではあってはいけない一つの条件ですね。演劇が演劇として成立するために。


じゃぁなぜ山上君を無罪だというのかと。

これは相手が相手で、相手が安倍さんである、彼に限定するということです。要するに正義を失った時代、正義を考えようともしない政治家たち、正義抜きに共同体ができると思っている連中に 呼び覚ましを行ってくれた 覚せいです。

これをきっかけに、共同体の根幹に正義の柱の1つや2つが立たない限りダメだということはみんな 分かった

わけまあ恥ずかしいながら、なぜこんな国民が憎む政党になったのか 自民党がですよ

わずかここ10数年の間に 特にここ10年はひどい。

それは第二次政権を作ったときに禁じ手を出したんですね

それまで日本の政党政治に守るために戦前の思想を政治の中にいれないという約束ができてたんです

それが中曽根あたりを境目に、壊れ始めて、例えば安全保障条約にしても10年に1回改定する権利がこっちにあった。

ところが鈴木善幸という田舎のおじさんが出てきたあたりで 軍事同盟にされてしまってその時に天皇制を憎む思想、要するにこの天皇制というのは 象徴天皇で象徴というのは民主主義、基本的人権の保障、個人個人の生命が死得ぬものとして保障される。

要するに象徴というのは契約です。天皇はどういう契約かというと象徴の中に契約という意味が既にもうある。

それは国民統合という契約 一つに結合される契約、 憲法があってその下の法体系がある。

これを無視して 皇室抜きの絶対だけ欲しがる 馬鹿な政治家たちが日本の有能な軍隊と言われてた軍隊のバカさ加減が露呈されましたけど

8人ぐらいは処刑されて生き残って出てきた岸、笹川、旧満州帝国のスパイ組織だった児玉とか要するに絶対性を失った日本の良い部分、少なくも私は平和憲法と同時に生まれてますから、戦後の歴史ほど僕の年齢なわけです

民主主義を否定する、基本的人権を否定する、 そしてそれを国民統合の象徴としての天皇を否定するこれはね一国の政権がやることじゃないでしょう。

これやりたかったらまず代議士を辞めて平和憲法によって守られるものを全部放棄した上でちゃんとやらなきゃならない 。

これは平和憲法の中で甘ったれて、すっかりそれらを信じない形を取る、 詐欺と犯罪と道徳的に日本は何の道徳もないし そこは正義を呼び覚ました山上くんを何で犯罪者と呼ばなきゃいけないのかそれがわからない

直接民主主義というのがあるわけで、法が裁けなかったら国民の一人が意をけっして裁いてもいいわけですよ

国がだって裁けないんですからね。

不法地帯になってるわけだから。 これは人間同士が決めた法廷よりすでにある


■宮台さん

みなさんこんにちわ 芥さん。本当によろしくお願いします

芥さんと多分最初にお会いしたのが90年代半ばすぎぐらいですね

95年にアンチェイン・マイ・ハートっていう結城座の人形芝居をみて、

ちょっと 僕はトランス状態、その後夜中にほっつき歩くような状態だったんですけども、この芝居は一体何なんだっていうことで、まあもちろん芥さんのことは存じ上げて いました

けれども、まあ改めて、芥さんのことに非常に興味を持ち、その機会に芥さんが 自らつくったお芝居に プレトークやポストトークに呼んでいただいたりして

お話をさせていただきましたが、ほとんどの場合 喧嘩になってしまいした。当時は(笑)

結構これは 重要な問題でね 僕はいつも本気で、やっぱり三島の視座っていうのも、まあ統治の視座ですね

この視座にたっていて 三島のいう空っぽの日本人、つまりですね一夜にして天皇主義者が民主主義者に豹変するような一夜病のポジション取り押しするような劣等な国民を統治するには不動点としての天皇がある、みかどが 必要だっていう、非常に近代的な統治の ロジックを立てておられたんだけれども

芥さんは、三島由紀夫vs東大全共闘のドキュメンタリーを見てもね、お分かりになるように、そんなものを知るかよっていう風におっしゃるんですよね。

つまり欲動の視座、アントナン・アルトーの視座からいうわけですね。

従って、噛み合うわけはないんだけれど、問題の構図は、皆さんにお分かり頂けたのかなという印象でした。

芥さんがおっしゃった今回の山上の活動は 僕も当然のことだというふうに言ってきました

これは、僕の場合はですね まあ芥さんの教えとはちょっと違ってて、統治の視座からなんですね

でまぁ17世紀半ばにトマス・ホッブズっていう人が、「リヴァイアサン」という本を書いて 基本元々は我々、個人や共同体の自力救済から出発したんだけど、それだと、うかうか眠れもしないので 暴力を譲り渡して、これ暴力を振るう権利を自然権っていうんですけど 統治権力を自立してで何かあったら、自力救済はせずに呼び出しボタンを押し て 統治権力になんとかしてもらえる代わりに自分たちは 経済活動に信頼ベースで勤しむのである。って

こういう図式なんですね。 で、このトマス・ホッブズの図式って逆転するとこうなるんだよね。

「国家が信頼できる暴力の独占隊でない場合には自力救済せよ」というねそういう命題も含んでるんですね。

で、これはロジカルの問題などで誰も否定ができない。 ところで自力救済には2種類あって個体の 自力救済と共同体の自力救済ですね。

共同体の自力救済、これはもう一部世界に広がりつつある、後で議論になると思うけどまあ巨大な規模のつまり国家の民主性ってもう回らないんですね。「だったら自分たちでやるぞ」っていうのが共同体的自力救済としての、共同体自治主義。

これは一つの前提があって仲間集団から共同体があるってことなんですよね。

残念だけど日本には1980年代、 急速に共同体が崩れて、その結果ですね、共同体的自力救済の可能性はないんですね。

日本にはマクロな意味ではもうないです。皆さんにも不可能ですね。ほとんどの場合は。

だったら個人的自力救済しかないんですね。

で、個人が自力救に乗り出すときは追い詰められています

精神もあるいは精神だけじゃなくて心身も傷んでいます。

実際 山上容疑者がね母親の 自己破産から今回の犯行で20年、いわゆる彼の世代に 共通のですね

非正規雇用としての 非常に辛い毎日を送ってきていた。

その中で、僕の言葉で言うと、コールしても誰もレスポンス しない

もちろん国家はレスポンスしない。それは旧統一教会が関わるズブズブ問題が入るようになるからでもあるけど

地域も、家族もレスポンスしないんですね だったら唯一の可能性は自力救済だけど、このコールしてもリスポンスしてもらえないというのが

何十年も何十年も続いた人間が、どういう心身の状態になるのかっていうことを考えれば、これはむしろ自然なことが起こったんです ね

で、そういう、少し芥さんと違ったか角度から、今回の出来事をまあ 必然の中での偶然、いずれ起こることが起こった。

というふうに 考えるべきだというふうに思っています。

芥川さんの先ほどのお話には、天皇をどう捉えるかと、関連してさらに米国をどう取られるか。

これ、天皇制を起こすってのは米国の意向だったんだよね。

あるいはまあ、米帝っていうふうに、僕らはいっていましたけど、米帝の 意向だったんですね。

で、それに唯々諾々と従ったっていう経緯があります。で、それもですねもしかすると

後に話題になるのかもしれない

で、 芥さんの視座と、僕の視座、実は今、 近づきつつあるような気がします。

最初に言っておきます。

僕はもうだいぶ前からですね今申し上げたように国民国家、国民は仲間だっていうですね、ペテンに満ちた物語に影響する国は、今後も回らない、少なくとも民主制としては回らない、 というふうに 言ってきました。なので、共同体自治主義が話題になる、はるか前から共同体自治しかない、わけですね、

まあ 無政府主義の立場に非常に近いものを主張してきました。なので、今もしですね

今の僕が例えば25年前の芥さんと、話した場合には、かつての25年前の構図にはならないと思います。


僕は2009年から民主党政権にね アドバイザーとして参加して、社会的包摂とか最大多数の最小不幸とかいろんな言葉をですね

民主党政権にインストールしましたけど、結局、政党は労働組合政党であって、労働組合っていうのは、 正規・非正規の区別をね

選定した枠組みで こん枠組みは日本にしか存在せず、しかも全体の労働者の中で 労働組合が占める割合は2割とかっていうレベルなんだよね、で 結局アメリカの民主党と同じで、この正規労働者=労働一族は 資本化つまり経済団体の有力者と利害を完全に共有しているんだよね。

テクニカルな話になるけど、7・8年前から言ってるように、もう日本の経済には全く未来がないですね

全ての経済指標がでたらめなんです 株価なんていうのはいくらでも盛れるのでどうでもいいんですよ 。

どうしても盛れない 経済指標は何でしょうか。それは皆さんの最低賃金とか、一人当たりGDPとか、平均賃金に現れているんだよ。

これも韓国にとっくに抜かれてるんだよね、最近では台湾にも抜かれてるんだよね

で、なぜかというと 生産性が低いからで それは一人当たりGDPで表されるんだけど、なんで生産性が低いかというと 既得権利変えられないんですよ

もうヨーロッパではEV比率って3割近くだけど日本はまだ2%でしょ?

で、統計的改ざんと同じで、ハイブリッドをさ、なんか電動車とかって言い続けているけど、完全に頭、ポンツクだよね

ハイブリッドで考えて決めるよ全ての エネルギー源は化石燃料だぞ、そんなもの国際的に通用するわけないじゃん。

で、もう 残念だけれどもそれと関連することだけど、エネルギーの垂直統合図式、地域独占巨大電力会社が、あすべての決定権を握っている状態は 変わらない。

マスメディアも垂直統合図式、 同じ。ついこの間まで通信も同じ。

で、つまりこの既得権益産業が移動できない、変われないわけです

で、 ご存知のように、電通・パソナがそれに追い打ちをかけるべく、ジャブジャブ税金を注ぎ込むとパンパンパンパン中抜きれて

最後は3割以下しか残らないような状態、これオリンピック疑獄の問題よりももしかすると大事なんですよ

そうしたですね、垂直統合的巨大企業と パソナ・電通的中抜き企業に、なんと官僚たちが天下りしてるんだよね。

で、その官僚 たちのケツをなめる形で政治家が政治を行う 政治主導とはならないで、すべての政策は官僚が一見、 政治家:安倍晋三のケツを舐めるフリをしながら、実際には自分のコントロール領域を強めているんだよね

アメリカのケツを舐める官僚のケツを舐める政治家のケツを舐める日本のマスコミのケツを舐める評論家のケツを舐める日本国民というケツナメ連鎖。それはどこにも存在して、それを僕はケツナメ連鎖のムカデ競争って言ってますけど、したがってドコを切っても金太郎飴の安倍晋三の顔、菅の顔、岸田の顔になってるわけで、こんなもん振り返ったってどうにもならないですよ。

皆さんのオツムと心を取り替えないと。

日本の野党を見てくださいよ 。僕が年来主張している正規雇用・非正規雇用の区別をやめよう、つまり解雇規制を撤廃しよう

経営者が自由自在に首を切れるようにしろ、これがないと民主制のモトでは 産業構造改革はできない。

それを支えるのは新自由主義だったんだよね。

日本にあったのは新自由主義ですか?、ネオリベですか? 頭壊れているよね。

日本にあったのはただの既得権益を軽くするための非正規雇用化かであり、消費税があり云々かんぬん。

これは自明なことですよね

だったら 資本の中に含まれる労働の移行で痛みを感じるだろう、そうだから 国際標準では労働力の公正な移行措置といって

2年間の所得補償と、職業の教育、職業の訓練の機会を提供するという風にして 生産性を上げてきているわけだ

これを主張している野党を居ますか?民主党系 ケツナメ組合、ケツナメ野党は当然として 参政党も主張していないよ、 N国党も主張していないよ。つまり日本にマトモな野党はないよ。

でもみんなはどうしてそれを支えちゃうの あるいはなぜそれを支えるほどトンマなんでしょうね

それは皆さんのせいじゃなくて。正しい情報が与えられてないわけだよ 正しい情報って何ですか?

そういうのは統計改ざんに象徴されることだけれどもね、結局、皆さんが見たいものしか見れないようなそういう構造になっているわけ。

実は僕がTwitterとかインターネットで日本の経済指標も終わりだった2016年ということです。

もう6年7年ぐらい前だよね。

で、それをマスコミが報じ始めたのはなんと、去年からだよ。

オリンピックのでたらめが明らかになり、あるいはコロナでの東アジアにおける圧倒的な敗戦が明らかになったから。

で、それまではメディアは一切報じなかったし、しかも、朝日新聞に至っては僕が山上容疑者について書いた原稿の大事なところを3点削除してやがって、でこれを告発をしたら、本当の原稿はこうだったなんて言ったら、朝日新聞はざまあげろで、

数十万部、部数を落としたようだね。 ちなみに朝日新聞は 過去10年間で購読者数は800数十万から大体400万人半減以上減りました。

ザマアみやがれです。

これがリベラル新聞を名乗ってたんだぜ。

どういうことだよ皆さん。 終わってます。 以上です


■司会者

宮台さんからお話もありましたけど、芥さん、宮台さんから近づいてきてるとお話がありましてけど

芥さん的には今の話を聞いてかに聞いて感じてますか?


■芥さん

近づいてきてるっていうか、まあ詳しくはわからないけれども

彼は、昔、私が台本を書き換えたりしながら台本を見てた。人形劇でのちょっと残酷オペラ。

要するに残酷という意味は、普通の人間には耐えられない 精神的苦悩と耐え難い肉体的苦痛 これを両方が度を越えて

一定時間があった時に 存在の一番下のあたりからもう一つ違った 力が出てくるわけです

要するに 期間が被る苦痛、精神が被る苦悩、これは演劇においてもある程度 共通で、もちろん革命家の場合もそうですけれども

革命家の 場合があり現勢力という現実それ自体の中に現実的 侵入していかなきゃならない、


でも芸術の場合は 先制力というか。

要するに 共同体は必ずある優れた犠牲体の定期的出現において呼び覚まされて続いてくるものだと思うんですよ

最初からあるわけではなくて。例えばいろんなところでこう理不尽な監禁を受ける

だから違う・これ違う・違う・違う・違う・違うって言い続けなきゃならない。

「アントナン・アルトー」の場合、精神病院で10年間、それを言い続けるわけで。

そこで私というのはどうなるんだっていうね。それでも人間でありたいと思い続けながら気が狂って死んでいくんだけど

アントナン・アルトーの場合ちょっと逆で、アントナン・アルトーのように自分自身に向かって

「俺は俺の息子だ 俺は俺の父だ、俺は俺の母だ、俺は俺自身だ」


身体から無意識の中に逃げ込んでいる影を追い払う、自分の生きている身体に神が介入しない身体と軸を作り出す

残酷ですけど。 演劇はおかしくなったとき一つの犠牲体、秘密の夜に 秘密の自己犠牲が行われる

それが土台にあって一定の残虐さを待ってそれを踏みつけて上昇してくる宗教も神を排除した身体。これをオルガなき身体という。 アントナン・アルトーの俳優性

はそういう見えない身体性に到達して

普通の演劇人は、例えばハムレットというものを知らない人物がいて、ハムレットを 何百年も続けていろんな奴が演じ続けることが、ハムレットが生き続けて、そういう意味でもハムレットも身体の形而上学性だけで生きているわけで。

それを実際自分の生命体でやってみる自分がモルモットになる状態、この残酷を生贄とする。

山上くんの場合、自分自身を自分の生贄にして、残虐さを超える生成、聖なる力、自己の生殖エネルギーを純粋な行為のエネルギーに転嫁するわけですね、その残酷な。

彼はあまりにも不幸すぎる理不尽すぎる力を加えられた。 当然、共同体に復讐する権利は彼にはある。

それは残酷劇としてパフォーマンスは成立してい ます。

それともう一つ。 彼は一人でなかったから良かったんですよ。妹さんがいらしたから。

兄のために尽くす寛大さを持った生命、母であり 一体化して、彼と一体化する唯一の人間として女性として、 妻ですそして恋人

要するに宮台さんがおっしゃった、いくら 呼びかけても何の応答も来ない世界、 彼には妹さんという一つもう一つの共同体があったわけです。一つの犠牲体に対してそれを尽くす。

身をもって存在が、要するに彼は1人でなかったということが逆によかった思うわけで。


普通、テロっていうのは権力側が正体を現さずに、不都合な人間を消してしまうわけで、山海君の場合は ちゃんと正体をもって、白昼堂々、 自分の技術と胆力と感性立ててやるわけです。

彼にとっても 彼は父で彼は母で 彼は息子で、息子の仕事は終わって 自身が 国家に愛される、監禁されてこれでようやく落ち着いて、漫画本が読めるという安堵の世界で、国家という共同体が 彼を迎い入れました。


それと、芸術かテロかではなくて、テロのような芸術、芸術のようなテロが、かつてはあって例えば、三島由紀夫がそれにはいるんじゃないかと思うんだけど、スランプの世界が相手だから 俺はもうスランプを辞めたその証拠がこれだという形を取ったわけです

そのきっかけは多分僕らが全共闘時代に東大に呼んであの話をしたことあたりからきっかけになって ちょうどあの時、暁の寺かなんかの半分ぐらいのところまで書いてて、彼にあってから、暁の寺は 後半作品が少し変わってきます

彼は 自分の文学はもはや 神羅万象を相手にできなくなっているということを彼自身よく知ってたから それと彼を支えてた美学が、死の美学なので死んでみせない限り何も完結しない

だから芸術とテロは絶えず、彼の中でせめぎあい。というのは19歳だときに書いた、

「中世に於けるーある殺人常習者の日記」というのがあって、もう話は簡単です。

ちょうど朝会の森と16歳で書いた 作品の反対側ですね光が当たらない闇の中で連続殺人者が日記を書いているという設定。それは彼 自身なんだけど。

それはちょうど昭和19年で、太平洋戦争障害の末期だから 要するに、女・子供と混じって敵機が来ると防空壕の中で逃げ込んでた 恥ずかしい自分に対する後悔の思いがああいう連続殺人者をでっちあげて、その日記があるという形をとってるわけで。

あれも テロの連続性をベースにしているわけです。ちょっ腐りきった美学ですけど。

僕自身だけはかなり健康に ギリシャ的な側面に強くて、テロも芸術も愛が関わってるって事では同じだと思うんですよね

じゃぁ愛って何だってことになるけれども 三島だってそれはあるんで、決起する前に森田くんとセックスをして出かけていくわけで。

最後の作品のあれを出版社に渡して、ちょうど僕がそのころ住んでた建物が小学校の真後ろにあるんですけど、そこで僕は発声練習をしているときに、その時はわかんなかったんだけれども、ちょうど、彼らは相当前で制服をきて、降りて、服装チェックってことになって、その時に彼は「あぁ、今、俺の娘はここで事業を受けたんだな」ってポツンと言ったっていうんですよね。

そういうところが割と好きといえば好き

彼の作品は僕はそんなに愛してなくて、ただ花盛りの森とその殺人常習者の日記、2つの美学が一つになって、金閣寺が生まれてただ、あれ以降、彼は金閣寺を超える作品を書けなかったということは事実。


浅沼さんが暗殺された事件があって、まあ知らないかな僕らも小さかったから社会党の委員長で浅沼稲次郎という人がいて、楯の会の鈴木さんなんかその浅委員長すごく 尊敬していて楯の会に行ってるわけですけども、浅沼稲次郎暗殺の場合、本当にテロなんですよ計画立てた奴がいて、何も知らさずに実行する純心な少年がいて、行為が終わったらすぐに自決するように

自殺するように教育されて 、これはアジア反響国家リーグ連盟というのを作ったわけですね

横田海軍基地の情報を訳してたわけで 結局その連中がまだ生きてた時はいいんだけど 組織だけが 変な力を持ち始めて

統一教会みたいなものになる。

だから問題は アナーキな自分が 湧いてくるのと山上くんの行動に目覚めさせられた私もいて 駆け寄ってすぐこうハグしてキスの一つでもしてあげたくなった 自分がいるわけ。それが今日、ここに来ている動機です。


■宮台さん

芥さんがあまりにたくさんだとおっしゃったのでですね、どこから手をつけるべきか考えるんですけれども

僕がねアンチェインマイハートにやられたのは、感染したから、力が湧いてきたからあるいは力が受け渡されたか ということになります

それとね、三島の記述問題をつなげると 三島は、先ほど紹介したような理屈で空っぽな日本には天皇が不動点として 必要と考えたで、それに対して橋川文三が直ちにですね 、致命的な欠点を指摘する、「そうか三島くん、君は天皇を機能によって擁護するのか、

だったら天皇はただの入れ替え可能なツールに過ぎないよ」と。

それに対して三島は、 「先生、おっしゃる通り。しかし。近く私は、答えを見せてやる」

みたいなことが書いたんですね、で、その後自決をするわけです。

三島は、実は、ど当時はですねよく海外では徹底的にバカにされていた存在です。

ところが、自決によって、つまり そこで彼が示したものが美学です。 美と美学は違うよね。

美は、いわゆる単に美しいだけです。美学はそうではない、美学は見かけが美しくなくても、それによって強烈な力を 受け渡されるつまり感染する力を伝える。

それによって三島はそれまでは 、エセ右翼の扱いだったものが、本当の右翼だなってことになった。

それは人々が 彼に美学を感じたからなんですね。だからそれは 皆さんに分かりやすいことは何か、本気とか粋と言うこともできるかもしれない

でね実はこの、本気、粋、美学はいわゆるカテゴリーとしてのイデオロギーを超えるんですね

それを最初に使用したのが鈴木国夫の反日武装戦線と狼:1977年です。

彼は 三島由紀夫事件は 淀川事件に感染したものでありで、その三島事件に感染したのが 反日武装戦線狼のテロ事件であり、

この反日部総戦線狼のテロ事件に感染したのが、野村秋介の経団連立てこもり事件なんだ っていう風にしましたね

そこで彼が言いたかったことは、粋に感じる、その粋ですよね、あるいはその美学の中核にある「力の抜き渡し」、これはイデオロギーには

関係がないんだ ということを言ったんですね。で、そのように物事を捉える立場が本当の右。

真実の右翼であって、 で、それは今の 対米ケツナメ右翼 とは違い、戦前に連なるものなのであり。

だから新右翼という場合の、真(New)には 音が同じだから真実の右翼っていう意味がかけられている

それはまあ、僕が、鈴木邦男氏から 伺ったことで。

僕はギリシャ哲学をかなり深くやっていますけれども 本当の 「右」ていうのは資本主義を認めるとか

いや、反響主義だとかっていうことは 関係ない。むしろイデオロギーを拒絶して、美学に連なること、これを主意主義といいます。

これは、インジレクチュアリズム=主知主義を否定しています。 主知主義って何かというと、その三島のような理屈ですよ。

天皇はこういう 機能を果たしているから擁護するべきだとか、何事もそうの人々を擁護する時に 理屈でそれを擁護する。まぁ パラフレーズすると

制度を変えれば、法を変えれば、仕組みを変えれば、社会が良くなるというふうに考える。

これが主知主義。

それが右に対する左であって、

それに対する主意主義というのは、社会が良くなっても人は幸せにならない、人が幸せになるのはどういう時か。

そこで さっきのアントナン・アルトーな話につながるんですね

どういうことかというと皆が自分が主体だと思っているんです。 

しかしですね、これコントロールするされる。これキーワードですよね。

ちょっとそれを入れてみてほしいんだよね

皆は自分がやっ、た自分が考えたと思って いる、その自分は、もしや操り人形ではないのかということです。

もともと社会学にはそういう発想が伝統的にあります。 社会化、ソーシャルゼーションという概念をそれ示しているわけですよね

あるいはアルトーから 直接的に大きな影響を受けたですね

ジル・ドゥルーズという人がいるのですが、彼は様々な人たちと合わせてフランス現代思想とか現代哲学と呼ばれていますが

それに共通するのはちょっと歴史的な経緯は省きますけれども、「やはり私はもしかして操り人形なのではないか」っていう ですね

その意味はわかるでしょう

例えば皆さん言葉を使って思考する。その ボキャブラリーを使うし、あるいは人に分かるように言葉を使う、その時に皆さんが 使っている

言葉は 社会から 刷り込まれたあるいは抑圧的に受け取らされたものです」、で、そのこと自体がコントロールではないのかあるいは 家畜のように訓練されて、それでまるで自分の欲望であるかのよう に社会や統治にとって 都合のいい 欲望。これを持つようになっているのではないか。すごく正当で理屈が通った議論だと思いませんか?

じゃあコントロールされない自分って どこにあるの?

それを探し始めることが実は 地獄なんですね。

それは 今日はできない人の名前を出さないで喋りますけども、例えばラカン派の系列の中にもアレンカ・ジュパンチッチっていう人がいます。

知らなくてもいいんですよ。別に コントロールされない自分は探してみてください 。

結構大変なことなんですね。

私が、学生時代から 知ってる 「ひろゆき」、ブームですよね。

僕が今一番下の僕の子供が3年生のガキなんですけ、どなんか言うと、「それって単なるあなたの意見ですよね」

「おまえ 何なのかそれ?」「いや小学校でみんな使ってるよ」

あのね、まあ基本ですね、最初に司会者がね紹介してくださったことだけど、 残念だけどこういうディベートめいたある種のこしらえものって 残念だけど全然意味がない、全く意味がないんですね、でそれはなぜ かっていうことも

先ほど話したことにちょっと関係するんですね。 僕はですね、あの、震災後、ある時期からですね 本当に今までの僕から考えられないけど

僕は実は85年から96年まで結構 ディープなナンパ師だったっていう伏線があるんですけど 、2000年代に入ってから 性愛ワークショップをやるようになるんですね

それは基本的に身体をコントロールするものから取り戻すということですね

取り戻そうとしている自分自身も、もしかしたら操り人形かもしれないということにも 気づいていない、そのような気づきが

深いければ深いほど 実は 本質的には社会の外にある性愛や、祝祭を回復できるんですね

で、社会って、定住によって始まった言葉と法と損得勘定の時空です。 しかしそれだと人間ヘタレるんで、

時々力を回復するために 祝祭をするんですね、祝祭の中核にはタブー/ノンタブーの反転があり、そこ反転されるタブーの中核には、性愛があるんですね 明白な構造があると思うんだけど、そういう意味でいうと、実はそういう言葉を損得の界隈に人々が閉ざされると、残念だけど、皆さんからは力が失われ 生きづらくなりそれを、ある種、回復させる力を回復させる力として祝祭と性愛がある。

先ほどチラっと言いましたが 80年代にある種の共同体の極端な空洞化がおこる、その結果としてですね、 実はカルト宗教が

続々と日本に増殖をする。さっき言ったように、 共同体的な自治救済がもはやできない。

コールしても誰もレスポンスしない。その時に個人で自治救済するのって大変だよね。

なかなかそこまで踏み切れないという ところに出てくるのがカルト宗教、今は情報商材詐欺だよね。

多くの方が 投資情報商材、英語情報商材に金をつぎ込んでいますが、大が詐欺です。

で、この情報商材にみんなね、金つぎ込んでるんでしょ?

30分のカウンセリングに120万とか払い奴もいるんだよ。これってコントロールされてないですか みなさん?

つまり、今の非常に残酷な社会状況もある種の ントロールを狙う情報素材の売り付け取材とか、 カルト宗教のコントロールタワー

にとっては皆さんをコントロールする 絶好の機会なんです。

面白いでしょ皆さん?  救済者に見えるものがそういうものでありえるということも皆さんがいかに

自分が自分の主体ととして 行動しているように見えながら、いかに自分が主人になる ことが難しいかを表しています。

というところからですね、フランス現代思想がもともとのの源流にはいらっしゃるわけですけど

何を言ってきたのか 実はすごくわかりやすいことなんですよ

で、それは例えば、皆さんね、デートする時めちゃめちゃ劣化してるんですよ

自分をどう見せるのかっていうことに必死になっている。バカじゃないの?

デートっていうのは、子供の遊びと同じで 一緒にいて楽しいこと、

子供は一緒に遊んでいても相手が楽しそうじゃなかったら すぐに気がつく

あるいは大人が何か言ってても言ってることに反応しないでどういう構え で言ってる かに反応するんだよね

怒ってないから子供は何か言ってないこのおっさん怒ってるじゃんって。

はい・それでさっきのヒロユキ問題で、 僕がね ディベートに強いと言われるのはなぜかっていうと相手の言うことに反応しないわけです

相手がそれを言う体制に反応するからですよね。それはなぜ僕は ナンパ師なのかっていうのと同じで

相手が何を言うか何をするかじゃなくて、それを言ったりしたりする時の相手の意識できない層、無意識に働いている2項図式的な

力の 動きを見るからですね。

ここを詳しく言うと面倒くさくなるから、一応ですね、何かを言う時に何を言ってるかじゃなくて

それでも言わせているもの構えに注目をすると、実はそいつが 自分が主体として喋っているつもりだ けどこいつは

操縦されているんだなーってことがわかる。 まず可哀想な気持ちになる。そうすると相手のその言葉を操縦している 無意識に 語りかけるような

場合によって応援するっていう力も与えることができます、相手から力を奪うこともできるんですね

そういう 言葉の使い方をすると、 皆さんは恋愛にも、ディベートにもとても強い人になる

その時、皆さんは自分が喋っているという風な、自覚もしていることになる、 自分にそれを喋らせているものは何だろう

ということで皆さんは 実は僕に言わせると、どんなにディベートの 訓練をしてもチョコザリです。

つまり素人で終わります。一生。それはどう言えばいいのかを考えてるから

終わっています。以上です。


■芥さん

成立してしまうような気がしますね

肉体を入れたら ディベートじゃなくなって 反対側に移れなくなるけども

宮台さんにちょっとお聞きしたいのは 例えば共同体における言語の活性化と性愛の活性化は絶えず同時にあるの、

あるいはそれは分離されるのか。


■宮台さん

それは分離されるでしょうね。それはね

わいせつという概念に注目するとよくわかる と思うんです


■芥さん

社会が道徳的なものをふりまわすから。


■宮台さん

そうですね

社会と性愛っていつも、数学的に言うと直和分割できる時空なんすねで

もっと具体的に言うと 例えば 性愛の享楽は、 法を破るときにやってくるんです

これはフロイト、ラカンがそうですよね。それはなぜかということは 厳密に理論的に記述されてるけど

皆さんが結果だけ教える。 皆さんで例えば恋愛関係によってうそういうことをすると僕たちが法を破ることになるから

やめようか、 そうしたらこいつしんだほうがいいなって 思いますよね

恋愛の音楽や、恋愛の芝居や、映画の伝統では困難を乗り越える愛が真の愛。

この場合の困難っていうのは世間であり社会であり道徳であり規律があり法な んです

で、そんなものは 破ろうか それはシェークスピアのロミオとジュリエットを考えてもいいし、その近松門左衛門、曽根崎心中とか

突き抜ける瞬間に、浄瑠璃では人形にまるでスポットライトがあたったかのように、光を感じるわけですよね。

そういうメカニズムが、アンチェイン・マイ・ハートには隅々に各所にあって、いや本当にすごいなと思ったし、

アンチェイン・マイ・ハートには闇の力が満ちているんです。その闇の力がなせる技が、共同体を突き抜ける、ニアリーイコールですけど

心中を決意した瞬間にそこに スポットライトがあたったかのように、まぶしい光を感じて、力を獲得するその力が闇の力だということなんですね


■芥さん

あくまで、これは 個人から個人としてそこに成立しなくては成立しないわけですよね、 だから

真のアナーキストだけが恋愛を全うできるのではなろうかという感じでいいですか?


■宮台さん

もう完全に正しいです

皆さんご存知かもしれないけど恋愛結婚って実は150年前にだいたい誕生したものです

ちょっと遡りますけど元々恋愛っていう概念は 欧米だと12世紀ルネッサンスと言いますが

始まったとされてるんですね。簡単に言うとですね もともと結婚というのは定住民を支えている農耕の収穫物の

保全配分継承の 継承線を 定めるために強いられてするものなんですね

なので、そこでは 愛・好き嫌い 全く関係ないです。もともとの出発点は 血縁関係でも結婚相手で

決められてるん です

その後ですね少し社会が大規模になると階層婚、家柄婚になるんですね

続柄きから家柄に。これも親があるいは家族が結婚相手を決めるものなので愛は関係ない

こういう流れがあった中で特にその今申し上げた階層婚、家柄婚の時代に 恋愛っていう言葉が出てきた。

結局どこでも恋愛という概念は婚外愛を指すものになったんです。日本でもそれは 同じです

恋愛はすべて婚外愛。で、なぜかわかるよね。結婚って、さっき言った「法」、 簡単に言うと決まりに縛られたもの。

なので、あるいはその共同体に縛られたもの。それを突き抜ける営みだけが、つまり社会の外側にあるものだけが

恋愛と言われたわけです。

ただそれを分かっているかどうかって、本当はこれ教養の問題じゃなくて身体性だと思う、構えだと考えたと思うんだけど

だから 芥さんや僕の時代には、やりたくなったら その辺でやりましたよね。雑居ビルの非常階段とかで。

どこでもなんか監視カメラからカシャってなっちゃう。。。

今でもですね 本気っていうかやる気があればできる ところはあるんです。

どこだかわかりますか?コインパークです。 コインパークはね車の後ろに隠れると監視カメラに映らないだけではなくて

車のウィンドウを通じて周りを監視できるんですよ。だから近づいてくるすぐにわかる。

そういう知恵を持ってる人、手を挙げて ください。お!さすがだね。。。っていうか一人しかいないこの状況何なんなんだ(笑)

以上です。


■芥さん

出会いが重要なのは結婚の場合 力のない人たちが大勢の認知を受けた形で納得するね。。

あるいは納得しないうちに相手を確保するため。

恋愛の場合は全く個人が 自分の権利で孤独も2倍になるし。。あるいは2倍以上に なるんです。人を愛せばね。

それで不安になってみんなの結婚だの、なんとかってことで、なんでこんな話をしてたかっていうと

三島さんの学習院の母校の先輩で有島武郎さんという人がいて

波多野秋子という婦人公論の女性記者と最後かけおちして心中するんですけどね。

それは国家を乗り越えたもので、純粋なステージ性というんですけれども。

キリスト教徒が近松門左衛門的な世界に突然はいって、なおかつ日本国家の近代のいやらしさを突き抜ける

これは三島さんかなり影響を受けてたような気がするんですね。同じ学校で出てて。

学習院大学を出た後、東大の法学部を卒業してるわけですから、 なぜこんな話をしたかったかというとわけですかしたかったかというと、僕は、右翼にぐちゃぐちゃにされて上演ミスになった俳優座最後の一日っていうのがあるん

ですけど、そのときいっしょにやったやっぱり中島葵という女優が森雅之さんの娘さんで、 有島武郎さんがおじいさんにあたるわけで。

武家の社会から公家しかいなかった学習院に入ってきた。ある差別があったわけですね

最終的には天皇制はいずれ消滅しなければならないという形を 取ったにもかかわらずその下にある

近代以前の、闇といえば闇ですが、の染色共同体的なものを遺跡の

闇っていうのは闇ですけど 闇っていうのは本当にあるのかないのか 僕はまだよくわからない

これは僕の資質上そうなんだけど。

で、太宰治太宰治郎の男女の心中、そこで男性同士の心中事件を持つ。 男性が愛し合う

それは天皇という絶対的美女 美女なんです絶世の美。 に向かって 男性同士が愛し合うそれを連結が

天皇制を支えるっていう美学ですね

2.26あるいは5.15の場合は、 男性同士が愛し合う、その幼児性はフロイト的にはおもしろいわけですね。

若い青年たちの集合体だからね。 これは完全に美学で思想でも何でもない

それで、2.26の場合は日蓮宗が入り込んで、要するに小乗仏教と大乗仏教を一つにして世の中を作り変えて

ただ 恋愛は純粋に恋愛として経験し楽しむには本当に力が 必要なんですよ。

なぜなら人間、愛に対してはね、ほとんど強くない

少なくとも 不幸なことに男女に引き裂かれて作られ いるからそうなる。

国家以前の摂理で、この生殖エネルギーの持つ底力って言ってもいいと思うんだけれども その生殖エネルギーが蓄積されて

共同体が生まれて、その秩序として国家がつくられたりする

ちょうど 企業でいう資本というやつですね。あるいは 労働が蓄積されたエネルギーなわけですから、もちろん

生殖エネルギーも蓄積されて資本の交換価値高めたりして生産率を上げたりするわけで。

恋愛がほぼテロに近い 総合テロだね お互いに殺し合っちゃう。

力がないと恋愛を全うできない。ただ共同体は生殖エネルギー抜きには成立しない

要するに 生まれてから死ぬまでの間、誕生と死がある意味でイコールになっている部分があって、そこへ緊急避難的にその技法を使ってこの世を超えた状態に一瞬だけでそこに到達するまでの積み重ねされた性愛エネルギー、重力 電気的な磁力、宇宙的な力で異なった力が2つ3つ4つぐらい集まって最終的に成立してくる

だから自分で恋愛を作ろうとしたら国家に反逆しなきゃならなくなる。

これはある意味で美学・芸術・テロっていうのが3ついっしょになったらできるんでしょうね

だから 天皇というのは 空っぽであるべきなのに、器官なき身体であるはずなのに、正義にまつわる一切を天皇と呼んでしまう わけです

太平洋戦争なんか民族の一家集中事件を 国家規模で発生させただけで構造は単に一家心中です。

生きられない怖いだから心中しちゃうという。戦争としては成立してないんですね何が敵かわかんないんだから。

権力は監視してないと民主主義であれ何であれ、すぐ堕落するようになっているんで

特にソビエト帝国が崩壊したのも民族主義と単なる帝国に堕落したからああなるわけで、国家に原因を抱くことをやめないと 共同体というなら人類共同体を考えないとこの狭い星で、光のスピードでコミュニケーションが 取れる時代なんですから、この地球だって人類共同の住処なわけで、建築物としての地球を考えるとき人類は やっぱり共同体なのですよ

まず何をするか。 通貨統一しないとダメです

各 ブロック経済で通貨がまちまちで通貨の売買でまた利益をあげようとするアホな連中がいるわけで。

世界連邦を形成し 通貨の統一をし、世界銀行券を発行する。 そうすればもう少し人類全体の隅々まで。

で、これに到達数字はどうしたらいいかって ことと目の前の悪徳をどうやったらこうできるだけ除去していけるか

そういう一人一人の強度がこれから試され いくと思います。

ちょっと 将来の 子供っぽい 明るいお話をさせてもらいました。


■宮台さん

あの、芥さんがおっしゃったね、生殖のエネルギー。でこれはフロイトは「リビドー」って言ってましたよね

これは さっき申し上げた現代思想の中でも重要な理解です。

なぜかというとね 例えば 動物の場合には本能あって、エネルギーとプログラムが結びついているんですね。

ところが人間の場合には、本能が壊れていてエネルギーが無定形・アモルファス(結晶構造を持たない物質の状態のこと)なんですね

つまりリビドーというのは 、性あるいは生殖のエネルギーと言われて ますが、元々、無定形・アモルファス・散乱的なんですね

従って 我々が社会生活を営むときこれが密かに 構造化・方向づけられているという形、になっ ているんだ

っていうことですねだからその時点で 我々は 実はかなり知らず知らずのコントロールを受けている

現にそのコントロールって必ず失敗するんですけど、人間にしかないものあるよね

多形倒錯とかフェティシズム()だよね。わかりますよね

フェティシズム:性的興奮をもたらすための手段として無生物の対象物(フェティッシュ)を好んで用いる)

フェチの9割以上は男なんですよね、編みタイツフェチか、ハイヒールフェチとか、 チェックのミニスカフェチとか

もしかしたら消しゴムを愛するとかってことだってありうるんですね。多形倒錯の概念に忠実であれば。

こういうことは人間にしかない。それは人間本能が壊れているので 生殖のエネルギーが無定形だというところに由来する。

それを皆さんがまあ最近話題 になっているLGBTの問題でもあるけれども

比較的ですね。 社会的に方向づけられているのはまさに奇跡、その奇跡の中核部分には皆さんが知らず知らずのうちに

コントロールされていること。

しかしこのコントロールがないと残念だけど人口学的再生産も、あるいは社会の持続可能性もないんだということですね。

さてそれを前提とした上で我々のこの無定形が本来の力と関係するのが、僕は、 先ほど芥さんがおっしゃった「闇」だと思います

「闇」はあるのか 。皆さんが考えるような意味では「暗いところは闇でしょ?」という問題ではなくて、闇って力の源泉なんですね

さっき 雪石さんの 闇の力って概念を紹介しました。

先日ですね、最近 NGOに変わったパタゴニアというですね、アウトドアグッズのプロバイダーの研修に講師として関わってきました

2日間だったんですけど、トピックの一つにメタバース問題がある。

メタバースってあと25年ぐらいでシミュレーションポイントを迎えます。

これは朝起きた時にそれがメタバースなのかユニバースつまりリアルなんかを皆さんには 判断できないということです。

って言うと、「なるほど、素晴らしいなー」じゃないんです。

僕はメタバースとユニバースは簡単に判定できる。それは闇の力があるかどうかです

で、パタゴニアの人々、クライミングとかサーフィンとか 結構やばいでスポーツをやっている社員ばっかりでしょ。

で、皆さん何でクライミングとかサーフィンがそんなに輝かしい享楽を与えるの?

皆さんご存知ですよね?それは死と隣り合わせだからだよ。

だからサーフィンの界隈ではさ、 雷が鳴った時に すぐ海岸に引き上げる奴はただのヘタレですよね

最後まで海に入ってる奴がえらいんですよ。でもそれは享楽を味わうことに開かれているから。

で、クライミングも以下同様。

で、僕はいろんな武術をやって言いますけど 武術も基本、死や深刻なケガと隣り合わせ。

だから輝かしい享楽があるんでしょ。

メタバースにね、死の深刻な怪我の危険が実装されることはあり得ませんね。

だから メタバースと違って、ユニバースには、皆さんの行動選択肢によっては、いつでも死や 深刻なケガの可能性から力を引き出せるんですよ。

皆さんの世代は 安全便利快適 厨ですよね

サークルに入るとき、「そのスポーツは安全ですか?」

昔だったら「死ぬかもな」「やります!」。。。今のみなさんにはないよね。終了です。

そういう終了している皆さんであれば メタバースだろうがユニバースだろうが、好き勝手に入って楽しく生きてくれってことになります。


■芥さん

俺はほとんど「闇」について語っていたような気がする

闇って言うんでちょっと思いついたんだけど、

「テネブル」。キリストが、イエスですね、イエスが十字架上で絶命した とき世界は暗黒で覆われたという ことから来てる

世界の暗黒っていう 詩ですけどちょっと読んでみていい?


主よ 祈れ  私達は間近にいます。もう、掴まれています

主よ 祈りなさい 私たちのために

私たちは 歩きました 歩き続けました

風を切り 窪地に身をかがめ、水飼場へ降りて行きました。

主よ そこにあったのは 水ではなく、あなたの血でした

血はあなたの顔を映していました。

眼と口はうつろに開いたままです

私たちのために祈りなさい

主よ、あなたの爪は私達の肉に食い込み、

私達の爪は、あなたの肉に食い込んでいます

私たちの肉はあなたの肉です

あなたの肉は 私たちの肉になったのです 主よ 祈れ


アウシュビッツの600万以上の死体が ヨーロッパを支え作ってきた残酷劇の

イエスキリストの肉体と 同じ価値があるあるいはもっと重要な意味があるという。

要するにヨーロッパを支えてきたイエスキリストの肉体をアウシュビッツの600万の肉体と入れ替わるべきだだという形で

利用されてきているわけです

もちろんこの詩を書いた何年か後、1970年に川に身投げして死んでるんですけれどそ、詩人は。

ユダヤ系の学生たちは、今のEU軍を制止させる原動力になってるわけでEUの支えているのは、イエスキリストじゃなく、アウシュビッツの 600万の死体なわけです。

あれは新たな新しく蘇ったという形をとっているわけです

それが今日において、人類を収容所に閉じ込める経済政策になって。

生まれてから死ぬまでここから出ないわけですよ。 なぜなら600万の死体が保証してるわけです


人類共同体が成立した時には、その蓄積された労働力 要するに資本です

蓄積された接触力これも資本です。これを 扱い方 特に、貨幣 というのが大変で

欲望を持った瞬間 負債、要するに 欲望を持てば借金その分借金になるその分自分が灰にならなきゃならない。

そしてその灰になっていく悲鳴を誰も聞き取らない

これに気づかないと、やっぱりただ働いててもしょうがないんで、とにかく僕は一応労働を拒否。

これは僕の闘争です、 かなりしんどいですよ。ただ認知できない体制の中で労働をするよりはいいと思っているだけで。

要するに 現実のある意味で生易しくなくて僕らの場合、存在それ自体を深め 自分の地獄まで降りていって

まっすぐ上にある何かがこう下がってきて、ようやくバランスが取れる。

だから残虐さと聖なる力ってのはいつも同時に人間にやってくる。

別々にやってくるならまだいいんですけどね 。恋愛をやるとこれがよくわかるんではないかなと。

恋愛の土台もありますけどね。

貨幣が貨幣だけだったらまだ扱い方がいい んだけど資本という形でどう 労働力や生殖力が尽き

蓄積されて全く関係ないところで利用 されて、仕組まれてそこから出れなくなっていくという

ことにもう少し僕達、 意識向けないとダメなんではないかっていうのは最近僕の結論です


「灰と、灰の灰」という戯曲を書いたのもそれがきっかけで、生きたまま燃やされていく人類たち

この人たち、共同の家をどう守ったらいいか、当然たくさんの共同性があるわけで。


■宮台さん

芥さんの言葉と僕の言葉は「対」ですよね。

芥さんの言葉は詩。 僕の言葉は散文。


詩はわかりやすく言うと力を与える言葉です

それに対して散文はあるいはロゴスは、 認識を与える力です

例えば子供の発達を見ればわかるけど 子供は最初コーリングあるいは掛け声のような力を受け渡す力を使います

カラスとかイルカとかがもってる力がそうで、これは認識のため、警告、 集まれ! みたいなね。力を呼び起こし伝える言葉です。

なので 実は詩のほうが散文よりも高等であり、散文は実は力のないものがいくら身につけたところでガラクタです

知識は 僕の言い方だと、 力を得た時にだけ、動機づけを得た時にだけ、前に進む力が内から湧いてきたときにだけ知恵になり。ですね。

なので芥さんの言葉と、 僕の言葉が コンビになると初めて僕の言葉は「知恵」になり という関係にあります。

僕は実はかなりディープなクリスチャンなので、 いいんですよ、芥さんの先ほどのお言葉は キリスト教に蔓延していた

中世的道徳主義批判 で今日のキリスト教神学がカトリック プリザースタンドの別なくあれは全くデタラメな議論だったんだということですね

道徳主義ってわかります?ど必ず、階層的な差別のために使われるんです。

道徳主義っていうのは必ず

宗教権力が世俗権力と結託して 自分の社会的なポジションを維持するときに出てくるんです。

法則です。どこでも そうなんです

なので もともとの宗教 は実はホモ・サケルで、聖なる存在って意味だけど

例えばイエスキリストが 十字架にかかりました。で、これは ホモ・サケル。

社会のメンバーでいるようにいて 別枠。人間にいるようでいて人間ではない存在として 扱われるのがホモ・サケルで。

イエスはホモ・サケルとして 扱われて。ローマで死んだわけです。

実は闇の力はホモ・サケルからでてくるんですね。

社会学者でそれを概念化したのはマックス ウェーバー。マックスウェーバーのマージナルパーソン。

周辺人っていう概念がそうです。変革の力、社会を揺り動かす力は必ず周辺からやってくる

後でですね妹の力の話にも触れたいと思いますけれども、例えば今、日本で 男と女とどっちが周辺ですか

女でしょだったら変革は女からしか来ないよ。だって 男はステークホルダだよ

アメリカでもどこの国でも起こってるけど、「男女平等化すると、ポジション がなくないじゃないか!」

「移民平等化すると俺のポジションが無くなるじゃないか」ってクズが湧いてるでしょ?

ということは 周辺にいる存在にしか社会は変えられない。ただしその周辺にいる やつが単に中心に行きたいだけ

だったらいわゆるオタサーの姫、高市早苗みたいな奴になるわけです

以上です。



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                 休憩

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■宮台さん

先ほどね芥さんが妹の力についておっしゃったんですね。

でなければ今の力について

おっしゃったんですねで実は今の力が 吉本隆明『共同幻想論』によると国家の 起源なんです。

ちょっとその話をします。

もともと1万年以上前は僕たちは遊動していました。

漂泊民でした。狩猟採集をしていたんですね

その頃は マックス150人の 集団で移動していて、 リアル血縁の結合体と言います一般にはバンドと言います

それがですねまあ1万年ぐらい前から順次定住が始まることによって 規模が拡大する、つまりバンド連合ができるんですね

で,これをクランという風に言います、で、クランの規模が大きくなるので、さして 知らない人間たちと

仲良くしてさっき言ったように定住の法生活をするんですね

その時に リアル血縁じゃない疑似血縁がつくられます。これをトーテミズムといいます。

うちの神様は鹿、 うちは 虎とか熊とか。。それぞれの間にはこういう関係があります。みたいな。

ところで最もですね 古いトーテミズムはオリジナルマザー 我々は違う部族だけど 本当は 同じ母から生まれている

想像的な 虚構的なですね 起源を捏造、 共有するんですね。

なぜオリジナルマザーなのか。

それはさっき芥さんもおっしゃった、例えば農耕における種をまいて芽が出て育つ。それをさせている力。

それと母が子を産み育てる力が「どうち」されたからだと考えるからですね。


さっきの詩と散文ですけど、力に満ちた言葉をしゃべる。それをですね 他の人に伝えることができるような言葉にパラフレーズする

この関係、妹と兄、妹と弟との関係が 国家の出発点だと考えるんです

それはどういうことかっていうとね、

所有をめぐって争って武力衝突、戦争になったとしますよね。そのときに身体的な優位性がある男が武闘を指揮する

そこで生じるのが母系父権。戦争しなければ、権、パワーを誰が持つのか、それはゲバルト(暴力)的なパワーではない

もともと我々につらい法に従う定住を支える力を誰が与えてくれるのか。それがマザー。

それがつらい毎日を生きる源泉なんだという考えなんですね。

戦争があると、妹、あるいはオリジナルマザーから沸く力を、武将、リーダーが使う。

このときに、力が湧く場所、あるいは時空をセイクリッド(sacred)(神聖な)、ホーリネス(神聖な)といいます。

それに対して、その力を使う時空を俗(secular)といいます。

これは非常に大事な図式です。

力が湧いて使う、湧くのは女、使うのは男、っていうのは、初期の国家の形態だったっていうのは 吉本の 考え方です

ここで実は、バトルあるいはバトルフィールドでの権力行使とは別に、そもそも、そういう権力行使をしようとするエネルギーが

どっからくるのってところで、妹mオリジナルマザー、これが設定されているという形です。

これは非常に優れたモデルだと思います。

性交において飛ぶのは女だから 僕のことばで言うと、女が飛び、女の翼で初めて男が飛ぶ。

我々はもともと「ケ」つまり「気」、これエナジー 力のことです ケがあってそして生きているうちに暮らしているうちに 木が枯れるんですけど、木が枯れるって、「気」が枯れる、「力が枯れていくんですね。

「気」が枯れた状態を回復するために、お祭りをする。これを「ハレ」といいます、

「ケ」⇒「ケガレ」⇒「ハレ」⇒「ケ」⇒「ケガレ」⇒「ハレ」

これを回しているという風に考えてその中に最も古い天皇の機能をみいだすということになっているんです

その天皇の由来は、 外来のものです。周辺から来たものです。

であるがゆえに力をもったのだ、あるいは力を溜める袋になるものだ。ってそういう発想をしているんですね

なので

村上 龍の「すべての男は消耗品である」っていう小説がありましたが30年くらい前ですけれども

この観念、命題は、とても的な普遍的な説得性があるというふうに思います。


だって、日本の政治って 9割が男ですけど、なんか、ショボいっていうか、ヘタレっていうか、劣化した猿っていうかすごい状態だよね

これは男だからじゃねーのって、女の人たち思いませんか??

はい次にリエスの話ですけれども。これ長くすると時間がなくなるけれども。

イエスはですねガリラヤで実は生まれ育っ たと思います

ナザレのイエスっとかって言われていますが、 僕は粉飾決算だと思います

ダビデオの末裔だということを正当化するために後 から保証されたと思い ます。聖書には4つの福音書があります。

マルコ、マタイ、ルカそしてヨハネですよね

周辺にいた奴がどういうふううに中心にいったのか、どんな苦難の物語を経て処刑されて3日後に復活して神となったのか

それが粉飾決算的。

しかしヨハネの印象はまったくちがった立場です。

はじめに言葉ありき、つまり、神はイエスという肉を通じて、人々に語った。という前提にたちます。

これはね、あまり信仰的に思わないでほしいです

イエスの言葉は イエスのことを全く知らなかった者たちが、そこに立ち会うだけで電撃ショックを受けてしまう。

で、ガリラヤ、どちらかっというとギリシャに近い。バイリンガル。イエスもバイリンガルだと僕は思います。

イエスの言葉は特殊な言葉で、その神の言葉がどうか 別として 誰もが電撃ショックを受けたことは事実ですね

で、その理由をヨハネ福音書は記している、

イエスのことを言いた瞬間、人々はいろんな ことを思い出し、「そっかあれはこういうことだったのか」

あるいは抑圧されていた記憶 を思いだす、「なんで私はこれを忘れていたんだろうな」というふうになる。

その思い出しによって 思い出した人が、失われていたはずの力を回復するメカニズム。

イエスのこの人々の力を 与える 言葉のメカニズムに注目するというのが、今の福音書研究の最先端なんです。


申し上げたかったことは、ホモ・サケルとしてのイエスに力があった。ただ、ホモ・サケルだけで力があるのではないです

イエスは、ホモ・サケルであるが故に、ある言葉を使ってきた。そのことによって 多くの人に 激震が走るということが起こった

日常を普通に生きてる皆さんが電撃ストライク を受けて傷つくのか。ロマン派の後の定義そのもの、芸術の定義そのものです

リ・クリエーションというのは 週末のシャワーを浴びてまた ブラック企業に戻ることです

そうではなくてそういう生き方そのものを 粉砕されてしまうようなそういうことをしている自分が 傷つけられ、もう同じことができなくなる

そういう衝撃を与えるものが芝居や映画、あるいはもともとの芸能の役割でもあるという風に思います。以上です。


■芥さん

イエスがなぜ処刑されねばならなかったか。

神を主と呼んだからなんですね。最初に。次に 父は私に 新しい約束を もたらした

やみくもに新しい契約を持ってきた美青年がいた 。最初、美しくてだんだん危険な人間になって

特に戦争焼け跡状態ですから 神の住まう神殿が 闇市場になっている わけですね

あなた方は私の父の魂に祈りを、モノの売り買いに変えてって激怒して、 ハトなどを飛ばし合うわけ。

それで実際的な力を 、単なるポエジーや観念だけでなく

道筋使ったということを自体がまず危険人物扱いを受ける

新しい約束をもっと来ようとすると必ず危険人物扱いを受けて ロシアではもう何人も殺されたり監禁されたりして

だからなぜ泥棒と一緒に 処刑されたか

イエスは泥棒したって言うんですよ。

神の言葉は一度盗まれたら勝手に変えられたら もうこれは取り返しがつかないからなわけ ですね

特にあれはモーゼの言葉からきてるから。

弱いものに向かって新しい約束を持ってき て、イエス以来、人間は内部に人間を持つことができたんです

いわゆる実存の始まりです。 それまではあっけなく死ぬんですよみんな。

ラテン文化だからね。 で、特にギリシャの神々というのは欲望を免責している力だから

全ての人間はそんな神だったことを 覚えてないわけでね

そこでイエスは新しい約束をあなた方の 心の中に種をまいて 産もうとしたそれが「言葉」です。

ヨハネは一説によるとね イエスが死んで200年近く経ってから ギリシャ語で書かれているんですよ

アラム語。まぁギリシャ語の 地方言語ですけども。

そして、マグダラのマリアがわざわざ出てくる。あれヨハネにしかでてこないですね。

マリアが十字架に下にくる、母親が そのかたわらにマグダラのマリアもいっしょに。

「見るがいい。これがお前の母だ」

こう言う、弟子たちがみんなビビっ ちゃって、マグダラのマリアだけがイエスが死んだあとビビらずに、

みんなを叱咤激励して、イエスの教えを守り通す力を立てたわけです。

2つの力が 新約聖書にはあったと思ってます。


■司会者

企画時間の16時半を過ぎちゃってるんですけども、17時まで行けますので

ここからは会場からの質疑応答の時間にさせて いただきたいと思います

マイクを担当者持って行きますので質問はとある方はお手を挙げてください



■質問者❶

こんにちは 抑圧的に

与えられた言葉から自由になって コントロールされない自分を作る

探っていくっていうようなお話が出たと思うんですけど、そこでそのコントロールされない自分を作るっていうのは

法の外だとか 芸術だとかっていう分野にも深くかかわってくる話だと思うんですがそういう行為の危うさというか

危険性というところもあると感じまして。

というのもやっぱりそれは真理に迫っていっ たり、秩序をいちいちこう解体していく ような作業だと思うんですが

それは一方では高尚な人間だとか 芸術家だとかを作っていくかもしれないし、また一方では 単に不道徳な人間だとか

非道な犯罪人だとかっていう風な人たちを 作ってしまんですけどもその2つを分ける基準というかその2つを分けるものは何なのかっていうこと、あとその宮台さんがそのコントロールされない自分を探すことっていうのは 地獄であるという風におっしゃったと思うんですけど、そういうなぜそういう希望のない 表現をされるのかなっていうことをお聞きしたいです


■宮台さん

皆さんがわかりやすいように言うと コントロールされない自分を探すんだけれど それが自分であるというふうに意識する

限りは地獄だね。自分は傷ついたとか思い通りにならなかっ たとか。

しかしギリシャ的に生きるということなんです。 実は新約聖書はすべてギリシア語で書かれていて、ギリシャ哲学あるいは初期ギリシャ哲学

が 敵として意識したのはある種の形、ユダヤ教の典型的な形です

悪い方が起こったのは神の言葉を裏切った方だ、だから神の言葉、つまり立法に従えば 良いことが起こるだろう。

このifthen選択、条件プログラム、これを ギリシャの人たちは 嫌いました

でそれを指し示しているのが数々のギリシャ悲劇です。

世界はそもそも データラメであり 条件プログラムのようにはいかない、じゃあ何が良いのか

それは 内から沸く力に従って、主体の消えた状態になることです、。

さっき芥さんが おっしゃった実存に注目してみると

自らはどうしようもない流れに駆られて、その流れ故に力が湧くことですね。

カトリックの最も中核部分には、「私が皆を裏切らないよう にどうか見ていきください」というのがあります

で、さらにそれを補強するものとして、「私 はあなたのものです。つまり私が間違えていたら直ちに地獄に落としてください」という祈り。

一方

「言うことを聞いたので天国に入れてください」 これは無いですね。これは間違った道徳主義に、堕落したキリスト教の解釈です

さて私が皆を裏切らないようにどうか見ていてください、見ていてくれればれば力が湧きます」

これは 個人が強い意志を持って前に進めばいいという話とはは違いますよね

これを小説化としているのが 太宰治の走れメロスです。 走れメロス福音が「せせらぎの音」です。

「せせらぎ」の音を聞いた瞬間に、 立ち上がらなかったメロスが、俄然、力が湧いて立ち上がり、セリヌンティウスのもとにかけつけます

ここには ある種の自己中心主義、自分が頑張ればなんとなるっていうたわけた発想、馬鹿げた発想はありません。 以上です


■芥さん

イエスの肉体、教えから実存主義が始まっ たっていうのは

近しい時間を超越した一つの感性の連続性みたいなものが私たち人類に絶えずふれてるわけです、

ただ 狂気っていうのは社会がなければ生まれてこないんだと、野生の状態なら 狂気は存在しないわけですねこれ

社会が作り出す狂気、それを覚醒させる もう一つの狂気。

ローマに占領されて一つの狂気にうちいった、ある民族から平日を新しく超えていくく方法としてイエスが誕生する

その時すべての社会から10年間くらい 彼は離れて距離を作って切断して。

いずれにしろ、変革するなら、社会の距離を持ってその距離を狂気に変えるというか何かに変える

芸術もある程度そうです 自分自信をちょっと 裸にして全部、展開しなきゃならない。


天皇は、その芸術を作る意味の意味を要求しているわけです

だから自分自身を展開し、 悪魔が何を質問してくるかをちゃんと考え抜いて

ちょっと話ズレれちゃったかな?。


■宮台さん

芥さんのお話を補足すると、

危険は除去できる、イエスは、 僕を含めて、今まで長い歴史を通じて、様々ないろんな人間に力づけをようとしてきた。

で、しかしご存知のようにですね 先ほど申し上げた中世の 道徳主義のもとで魔女狩りが行われたし

あるいは 十字軍の遠征での大虐殺も行われたし、あるいは中南米のですね、原住民狩りもイエスの名のもとで行われたんですね

さてこの危険はどこに由来するのかを、 実は自分のオツムで考えてほしいんですね。暫定的な答えを言いましょう

冒頭に芥さんのおっしゃった「私は命令されない」 ということが重要です。

艱難辛苦考え抜いて、これだけは善だろうと、思ったこと それをやる、

それを力づけてくれる強めてくれる何かがあ、流れがある、 言葉がある。 そう考えるべきでしょうね。

しかし一方で「なんか偉い人が言ってるからその通りやります」 は、マズイです。


■司会者

はい 他に質問ある方、

ちょっとね時間が あんまりないので本当にあと2、3問本ぐらいで、


■質問者❷

ありがとうございました

芸術がその 宮台さんの言葉というトランス状態に人をおいやるような 魔術的な力を持ってるって事は

わかるんですけども それと、その一方で 宮台さんが書かれた「終わりだけ日常を生きろ」っていうのが

正反対のような気がちょっとしてしまうんですけど。

先のケ・ケガレ・ハレとかがあって、カルトの人ってずっとハレにいる状態だと思うんですけど

死体の消えた状態になるということを評価するんですけど、他方で、「 終わりなきゃ非常に生きろ」っていうのを

どういう関係があるのかっていうのをお 聞きしたいんですけど、


■宮台さん

あの本の言ったことは 意味を求めるなということです

多くの人は、「私は無意味な正を生きている」

それに対して、「この活動に連なれ、 そうすればお前あるいはお前の存在に意味が与えられるだろう」

これはまあ情報商材サイトと同じです。

以上です。



■司会者

次の人



■質問者❸

今回のそのトークイベントのタイトルにも なっている芸術家かテロかっていうことについて

最初の方に芥さんが 芸術かゼロからではなく芸術としてのテロ、あるいはテロとしての芸術っていうことを

言っておられたと思うんですが、あの実際、展示をやったりとか 芸術活動をしようと考えた時に展示っていう形式を考えると限界が出てくる、その限界っていうのは基本的に 展示を見に来るお客さんが来るってことですねで

それはしかも結構無視 できる、 普通に生きてる人とかは来なくてもいい 。

そうすると作家側としたらたくさん展示やってなんとなく、最初の方に宮台 さんがおっしゃられてたと思うんですけど、主知主義的な方法で 社会を良くしていこうという発想にしか立っていかなくて、そうではなくて一発で穴を開けるような。

脳に。穴を開けるような ことっていうのは、そういうことを考えようとすると 必然的に テロに近くなってくるわけです

どのよう にすれば、テロは一発しかできない 。ほとんど。一人でやる場合は。 効果的にダメージを与えられるか

不可逆的なダメージを与えられるかということに発想が言っていくと思うんですか。この一発をでいくみたいな。

こういっ た発想っていうのは今有効でしょうか、有効ではないでしょうか。そういうことをお聞きしたい です


■芥さん

少なくとも芸術家であることが山上君の パフォーマンスを生んだ瞬間恥ずかしかった思いがあるから

彼らがやったことはテロじゃなくて革命なんで僕にとっては。 良きものをもう一度取り戻した。

呼び覚ましの力っていうのが、あの場合 白昼ですね。

芸術にもそれが必要かというのはいろんな人が試行錯誤をするんで、ただ試行錯誤の地獄を自分のものにすることは

芸術の場合できるでしょう。それが重要なんだと思います。

するとキリスト教の話が出たんで言っとくけど、 キリスト教も2通りはあるからね

ユダヤキリスト教と、ギリシャキリスト教と。今日はギリシャキリスト教のほうでしゃべっていますが。

ピューリタンが 経済活動を認知したので銀行が生まれて支配主義が生まれてくるわけ です

それに対してギリシャキリスト教の方は文化や芸術や愛のお話ですね

砂漠の獰猛な谷に向かって 汽車の愛を

イエスはほとんどアドリブだけで生きていたわけでそれが百発百中なわけです。

だから 一度僕台本の何も書かずに2・3時間 即興だけでやったことがあったけれど、かなりキツイ。

キチガイになってきますね。終わりの方になるとね。

試して良かったと思ってます。


■司会者

最後後5分以内になっちゃったので、最後、お2人から一言ずつ頂いて終わりにしたいと思っています


■宮台さん

表現とかね、あの芸術って難しいです 。食わなきゃいけないから。

でも例えば僕はオーチャードおばちゃんとかと僕が言っていますが

オーチャードホールに行くとですね、「素敵だったわね~。」

これクズでしょ 本当に(笑)

電撃ショックを受けた場合、僕は2回の展覧会あるいは別の機会ではありますが

もう時間が消えるんですね。ずっと見ていることになります。

一つは バンドホテルでもう一つは荒木経惟はアラーキーの写真集を 日比谷図書館分館中央図書館で

で見たということです 朝から晩までずっと一つの写真を見ていました。

芸術ってのは、従って体験なんですね。

なので、実は 芸術作品じゃなくてもね 夕暮れの公園でパンダやゾウの置物というか、遊具が置いてあるのを

ただじーっと見ているだけで覚醒してしまうことが あります。僕にはありました。

そこでは実はアート体験がなされているわけですよね

で、しかし 今日は詳しい芸術史の話はしないけど、芸術史の勉強ちょっとしてみてくださいよ

結局 産業革命によって生じたブルジョワジーマーケットを 当て込んだ ブローカーたちによる、最もらしい

向上 キャプションによって市場が形成されたのが特にロマン主義以降の芸術。

僕らが芸術というのはそれです。

そこでその向上の一つとして先ほど申し上げたような 人々を傷つけ、元に、あるいは元のように生きられないようにするものが

芸術ということですね

これもブローカーのキャプションなんです。 でも何もかもですね。否定すると何もできませんよ

資本主義的市場経済否定して。。皆さんマルクスの本って「どこ」で読むんですか?僕の本「どこ」で読むんですか?

芥さんが昨年ぐらいの前に書かれた、「混沌と抗戦」っていう本にですね

全教と三島との対峙の振り返りがあります。 これも本当に死に満ちていて僕には力が湧きますが

「アートだと書かれているから」、 「美術館に置かれているから」、アートだということは ないです

でもそれを 七面倒くさくしてする戦艦機のジャクソンポロックのような コンテンポラリーアートになると

これは アートを知ってるやつにしかその意味がわからないというタワケたものになるんだよね

公園に置かれたパンダの遊具のようにはいかないわけだ。

なので 皆さんは資本主義市場経済の中でオーチャードおばちゃんみたいなバカな連中を騙して金を取りながら

電撃ストレートを受けるものが非常に低い 。数十人に1人の人間たちを当て込むしかないんです


■芥さん

誰か最後の質問1人!


■質問者❹

ありがとうございました

昔の芥さんと東大全共闘の三島さんとの話について ちょっとお聞きしたいんですけど

解放区の話を 三島さんと芥さんがされてて 解放区 の話をされてて

三島さんがその継続性ってものに着目 しているのに対して、芥さんは解放区な中には時間も空間もそんなもの

ないんだって話をしていたかと思うんですけど、これって芸術の話とすごい近いなと僕は思ったんですけどで

今、 芸術をペンキでバシャーンってやる活動家ののニュースが、最近されていますが、芸術ってものが 物質として表象された時に さっき言ったようなロマンみたいな、あとは価値の転倒、意味の転倒ってものを失って、永遠の永久にある物質として表象された時にその芸術は芸術として存在できるのかっていう 非永遠というものが、闇としてその現実に意味を与えてるのか、それとも芸術が永遠であるっていう命題が成り立つのかってことについてお聞きしたいです


■芥さん

演劇の場合は、 そのステージはやはり一つの解放区でなければならんのですよ

だから宮台さんが芸術が生まれる現場で魂がどんなだったかを想像できない奴は芸術をみるな!みたいね

確かにそのとおり。

ユダヤ人なんかは クソしかしてないと思うから

私に言わせれば、「芸術は、本来、交換不可能なものだ」と言いたいところがあります。

例え、アルタミラの洞窟に倒れた人間の絵がが小さく書かれている。その何世代にも渡って描かれて 重ね塗りになっていますね。

マーケットがないんだから交換不能だって言われればそれまでだけど。

けど、あそこに立った瞬間に、芸術が現存するという、とてつもない力と震えがやってくるっていうのはだいぶ後で記述してますけど。

小学校の時あれを見てから、絵がある世界と、絵がない世界 もうそこで区別してるんですけどね

絵がない世界と、絵がある世界 両方にまたがってたのはフィンセント・ファン・ゴッホで。

イエスが素足で歩いたあと、くつを履いて 追いかけていく子がいるわけです

いろんなものを見ながらそこに 自分がイエスの光を感じる魂の 休み場がやってくる

それを 急いで絵にするわけですね

ジャクソンポロックの絵。あいつの絵を見てから僕は画家になる夢捨てましたから。

こんな発想で絵を描く奴がいたらダメだ 。だから今でも想定してますけど

なんか答えになったかな? 解放区に関しては芸術には不可欠だ。だから芸術家はみんなアナーキ思想がある

自分の恋愛を国家を超えたものにする。三島さんは時間に拘泥する人だから時速1 ヶ月持っとく解放区と1回しか持たない解放区

では全然違うんだって言いたいわけです。 闇の量が違って言えばそれまでまもわかんないけど。

あとはだいたい疲労するわけだから、だから3分でも3時間でも3日でも同じ価値だって、僕は言ったわけです。

「解放区」は行為です。アクション。そういう意味では演劇なんかに近い。日日常をアクションする。

おまえらの道徳や法律はここに介在できない!という 聖なる空間をつけたわけです。

芸術かテロかは両方ともエロスが深く関わってるって事は わかりますよね?

殺人はエロティックなものなんでしょうね

エロスとタナトスが一つになる恐怖とエロティズム。

三島の場合そこへ行きたかった。 だからあれはテロだね

山上くんの場合はテロじゃない。何度も言う。芸術でもない。じゃあなんだ?革命です。共同体を正義に向かって、目覚めさせようとしたわけです。

だからテレビや、全滅したジャーナリズムも少し息を吹き返しつつあるし、ここでこうやって堂々と山上くんを連呼する場、が大学の中に生まれてたりもするわけです


だから 脳水の中でもいいから解放区を持たないと こういう悪い時代は生きていけなくなるんじゃないかと思います

政権それ自体は嘘をつき続ける。変な時間の持続だけ成立していて、空間も何もどこにも見当たらなくなるから大変なことになる。

絵を描いてても絵が成立してくる現場が重要なんです

性の現場だからね。もちろん死がいろんな形で介入してきます

介入していた死をもう一度集めて こっちの秩序に合わせて配置するのは、建築土木的な力も必要とするし

短い時間だとねちょっとこれは 難しい問題ですね


■司会者

ということでですねまあ17時も少し過ぎて しまっているので

終わりにさせていただき たいと 思います

本日はお越しいただいて誠にありがとうございました




以上。

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