毎日、少しずつ学習を進める。引用元:MIYADAI.com Blog等
日本の天皇制。
宮台真司さん曰く、これを読み解くには、具体的に天皇制とは何なのかを理解するために、
西ヨーロッパ流の立憲政治の歴史、とりわけ立憲君主制の歴史について理解を深める
ことが必要だと言われている。
なので、ここから入る
■■■立憲君主制及び西側・東側の伝統
立憲君主制とは、君主が「私は憲法に従う」とし統治実務を王ではない者に委ねる体制で
西ローマ帝国の伝統を背景にし「王は俗人の最高者」という伝統。
「王は高貴なれども聖ならず」とし人々の行為を制御でき、心の制御まで及ばず。
これは聖俗二世界論と呼ばれる。
東ローマ帝国(つまりビザンティン帝国)の伝統は西ローマ帝国の伝統と対称をなす。
俗なる世界の主宰者が、同時に聖なる世界をも主宰する。
つまり、西ローマ帝国の伝統と異なり、人々の行為を制御し、かつ良き心についても命令する。
皇帝は教会の長として聖なる存在でありながら法を制定して人々を支配する力を実装していた。
このような聖俗一致体制をテオクラシー(神政政治)と呼ぶ
東ローマ帝国(ビザンチン帝国)では、ビザンチン皇帝が、
俗世の最高権力者(法の主催者)と、宗教の最高権力者(道徳や良心の主催者)を兼ね、
聖俗二元論が定着することはなかった。
法と道徳(良心)の一致を図るテオクラシー(神政政治)の伝統が、後の「東側社会」。
これが社会主義国化へと帰結した。
テオクラシーの対立概念はデモクラシ。デモクラシーとは何か。
小室直樹さんの著書によると、委任独裁という形態としている。
社会システム理論の定番図式でいえば、
「進んだ西側社会」:政治機能を法機能や経済機能や宗教機能や教育機能などと横並びの
機能的分掌のひとつへと囲い込む、機能的に分化
「遅れた東側社会」:政治機能が、法機能や経済機能や宗教機能や教育機能を無限的的に
飲み込む、機能的に未分化。
あるいは
「進んだ西側社会」:政治機能が囲い込まれているがゆえに、政治が介入できない行為領域(人権)
とそれが可能にする政治が介入できない尊厳(自己価値)が確立
「遅れた東側社会」:政治が介入できない行為領域がなくゆえに政治が介入できない尊厳がありえない
■■■日本の天皇制と立憲民主制との違い
日本の天皇制には「聖俗二世界論の伝統」はない。
天皇とは高貴でありかつ聖なる存在である。
天皇が自ら政治的発言はしないと約束しても、立憲君主制の要件である「俗なる世界の最高者」という条件を満たさないため西欧のようにはいかない。
聖なる存在であるがゆえに、本人の意図にかかわらず、発言は大きな政治的影響力を持つ。
日本の天皇制が、西ヨーロッパの「キング」の伝統とどう違うのか。
明治天皇や昭和天皇は立憲君主として振る舞おうとした。
立憲君主制は定義上「キング」が俗なる存在であることを前提とするため、明治憲政が立憲君主制だったとは言えない。西ヨーロッパは西ローマ帝国の聖俗二世界論の伝統下にある。
各領邦の王は身体の外形すなわち行為のみを制御し、内面すなわち心の世界はローマ教皇が主宰する。
改めて、立憲君主制とは、以下を言う。
・上記伝統を前提とし王が元首でありつつ憲法に服することで、政治的実務を全て臣下がなすもの。
・政体の最終的なレジティマシー(正統性)が、我は憲法に服するとの王の約束にあるもの。
ゆえに立憲君主制は、貴族制でも民主制でもあり得る。
立憲君主制と民主制は対立せず、民主制と対立するのは独裁制や貴族制。
約束に従って統治実務は王でない人たちで行なう。
王でない者ども──民衆や貴族からなる統治者──は王からの影響を受けない。
それが可能なのは王が俗人だという伝統があるため。
日本はどうか。
日本の天皇は俗人ではない。
西ローマ帝国的伝統下の王は、貴であっても聖ではない。王に言及するのにタブーはない。
日本的伝統下の天皇は、貴であると同時に聖。だから天皇に言及するのにタブーがある。
「天皇制」下では、天皇でない者どもが天皇からの影響を受けないことがあり得ない。
昭和天皇は立憲君主たろうとしたので、御前会議で意見を述べなかったとされる。
日本的な権力工学は、天皇の周囲にいる田吾作(※)どもが、陛下の真意(神意)はここにあるに違いないと忖度しながら──あるいは真意を擬制しながら──相互に規制するというもの。
※宮台さんでいう田吾作(民度が低い、あるいはブーたれるだけの「愚民」)は、大塚英志さんで言うと
ころの土民。
これは東ローマ帝国的伝統とも異なる。
東ローマ皇帝は「俗世界の最高者」と「聖世界の最高者」を兼ねるが、「俗世界の最高者」という
意味は本人が統治実務を行うということ。
日本の場合は天皇が統治実務を行うことはない。
だからこそ、統治実務を行う者たちにとって、聖なる存在である天皇が、政治的影響力のリソースとして貴重になる。
■■■王室を開くということについて
「開かれた皇室」という論があるが、この論は、西ローマ帝国的な伝統のもとでの立憲君主制を前提とするものとなる。
「王室を開く」ということは、王室の方々が自由かつ奔放に発言しても、統治権力が政治的影響を受けないということ。
王が聖なる存在でない限りにおいて、それが可能になる。
皇室を開いて天皇や皇族が自由奔放に発言するようになれば、政治的影響力は甚大。天皇とは高貴でありかつ聖なる存在であるから。
田吾作が「天皇陛下のご意向」を持ち出すだけで大きな影響力が生じる。
これが立憲君主制のわけがない。
日本は構造的に立憲君主制たり得ない。
■■■天皇の国事行為
憲法は陛下の国事行為を定めるだけ。皇室に公務はあり得ない。
第7条に列挙された国事行為は、「天皇に対する命令」と解するべきではなく、「統治権力は天皇に対して何をお願いしてよいか」を列挙した許可条項だと解するべきである。
天皇の国事行為も皇室の“ご公務”も、国民に対して負う義務ではない。
国民は命令権限を持たないから。
憲法上自らに何の義務もなく、誰にも命令する権限がないのに、陛下や殿下やお妃様が“自ら”統治権力からの「お願い」に粛々と従い、それゆえにこそ象徴天皇制がうまく回っているように見える
陛下や殿下の振舞い方次第で、民衆がイメージする象徴天皇制は簡単に回転を停止する。
陛下や殿下を始めとする皇室の方々がたまたま“自発的”に一定の振舞いを継続して来られたという事実性に象徴天皇制を中心とする戦後憲法体制が寄りかかっている。
■■■天皇自身による象徴天皇制の定義づけ
譲位の際のビデオメッセージにて、天皇はお言葉の中で、憲法で定められた国事行為以外の象徴天皇の役割として、「祈り」と「旅」を位置づけた。
「祈り」とは、主として明治以降に行われている宮中祭祀のことで、長時間にわたる体力的・精神的にも負担のかかる祈りの行事が、年に何度も宮中で執り行われている。
明治天皇・大正天皇はこれらの祭祀に消極的(作られた伝統であることを知っているので当然)、昭和天皇は戦前期はそれなりに行っていたようですが戦後は徐々に縮減、その一方、平成になると天皇・皇后は非常に熱心に祭祀を行い続けた。
「旅」とは、上にも書いた各地への訪問、古代にも匹敵する行幸のこと。
戦後の象徴天皇制が空洞化しているとの議論があるが大間違いである。
今も十分に機能している。その証拠に、陛下や殿下が何か発言すれば上へ下への大騒ぎ。それを知る陛下や殿下が、敢えて宮内庁の田吾作役人の「お願い」を聞き入れ、また敢えて言いたいことを禁欲されている。そうである以上、象徴天皇制はまさしく機能している。
陛下や皇室の方々の自発的な振舞いや不作為があって初めて回る戦後のシステムにおいて、彼らがこの自発的な振舞いや不作為をやめるとき、真の空洞化が訪れる。極限的事態ともいえる。
■■■日本の皇室典範問題における男子系統の「伝統」
皇室典範問題における男子系統の「伝統」。「伝統」がいつどんな事情で始まったのか。
「伝統」は飛鳥時代の継体帝以降。それまでは氏族社会で、部族共同体が鱗状に分布する環節的構成。
それが朝廷に集権化する過程で、氏族間に階級が導入され、階層的構成になった。
その後、氏族を階層的に配列するための仏教導入をてこにした「貴賤観念」と、
階層社会以前の「聖穢観念」とが政治的に結合された。
「貴賤」とは身分の高い人と低い人を表す。
「聖穢」とは清いこととけがれてきたないこと。
こうして、「聖なるもの」は階層頂点に配当された。
西ローマ帝国の範域は聖俗二世界論を達成、階層頂点が聖性を帯びるのは禁じられた。
東ローマ帝国の範域は、階層頂点が聖性を帯びる伝統が続き、後の「東側」社会を準備した。
日本は、鎌倉幕府以降、階層頂点とミカドの聖性は分離されたが、ミカドの聖性はその時々の事実的な階層頂点を正統化する役目を担わされた。維新以降も、頂点(君主)が俗人たる西欧的立憲君主制と違い、日本では頂点(天皇)が聖性を担わされ続けてきた。
■■■象徴天皇制の正体
象徴天皇制は、日本を占領したアメリカ軍(以下GHQ)が編み出した。
敗戦後の国民は「もう戦争はこりごり」という感情を抱いたものの、民主主義を欲したわけではない。民主主義自体の理解もなかった。
政治家を含め国民の大半が、日本をどんな国にしたいのか明確な意思を持たなかった。
そこでGHQは、象徴天皇制によって国民の意思の欠落を埋め合わせた。
天皇が「平和を愛する民主的な日本国民になってほしい」と望んでいるというわけである。
存在しない「国民の意思」を「天皇の意思」で埋め合わせた。これは実に有効であった。
「象徴天皇制」とは「戦後的なもの」を肯定するナショナリズムのためにこそある。
「戦後的なもの」を肯定する「安全なナショナリズム」を浸透させるためにGHQが採用したのが、
天皇裁判や天皇退位を否定して「象徴天皇制」を敷設するという戦略だったからである。
■■■近代天皇制と原天皇制の違い
近代天皇制と原天皇制(元々の天皇制)は異なる。
原天皇制(飛鳥時代まで)とはヒメ・ヒコ制に由来する「力を降ろす」ための装置。
近代天皇制には「縦の力を降ろす装置」としての側面と「忘却と融和の装置」としての側面がある
前者の側面は、古来の聖穢図式を呼び出して人々を鼓舞するもので、原天皇制のみならず原初的社会に普通に見られる普遍装置。
後者の「忘却と融和の装置」の側面は、幕府史を踏まえて岩倉使節団系が考案した。
システム理論に基いて 「社会」と「世界」の区別を語り、「社会」からやってくる力を「横の力」
「世界」からやってくる力を「縦の力」と呼び、元々の天皇制が降ろす力を指す。
役割関係や権力関係のような「社会」関係の力学が「横の力」。
これに対して「世界」の本源的未規定性を呼び込み、規定されたものを揺動させる力学が「縦の力」。
三島由紀夫が天皇を擁護するのは、「政治=内在」の領域ではなく「文化=超越」 の領域においてである。
彼が象徴天皇制と言うとき、明治以降の「忘却と融和の 装置」としての天皇の政治利用を指す。
三島由紀夫が、ある場合には宮台氏が、天皇へのリスペクトを持ち出すのは、こう した「内在」のロジックではない。
同じく小室直樹博士が言うような、昭和天皇の近代主義的な見識のお陰でむしろ国民は救われたとする「内在」のロジックでもない。
そうでなく「超越」のロジックである。
「世界」の全体性を(すなわち「世 界」の規定不能性を)指示する「サイファ=超越論的存在」として(すなわち 「世界」の内と外に同時に属する存在として)天皇を持ち出すのです。いわば 「宗教的形象」としての天皇である。
「政治=内在(規定可能な部分性)」。「文化=超越(規定不能な全体性)」。
「天皇=超越論的存在(規定不能な全体性を暗示する規定可能な部分 性=サイファ)」という宗教社会学的な構造が、徹底理解されなければならない。
近代国家は憲法により国家を制御するという構造を持つが、その憲法以前に必ずベースとなる憲法意思が存在する。
アメリカであればファウンディングファーザーズ(建国の父)やキリスト教(プロテスタント)が参照点になる。
日本ではファウンディングファーザーズのような俗なるものに憲法意思の参照点がない、故に、薩長明治政府は、動かない参照点として聖性を帯びた古代の天皇制を復活させ、憲法以前の憲法意思として天皇を統治に利用した(上に登場した宮中祭祀もこの権威付け故に必要となる)、戦前戦後で憲法が変わりつつも、この体制が維持されているのが現在の日本国である。
従って、憲法意思の俗なる参照点がない以上、天皇制をやめることは非常に難しい。
合わせて、様々な人権上の制約を課される天皇という存在(職業選択の自由やその他の自由もない)が
国事行為を行っているという事実、このことは、人間の尊厳に悖るシステムであるということと同時に
実は天皇自身が「もうやめた」と言った瞬間に憲法自体が機能しなくなるという、非常に脆弱なシステムでもあるということである。
■■■天皇制の側面
ただし、一方で、「天皇制」はこのような捉え方がある。
日本人は共同体が崩壊し、日本人は正しさに準じる心が失われつつある。
人間は、人間としての視座、人間としての視座だけの場合、人間はズルしがちである。
しかし、人間は、人が見てる、神がみてる、自分がみてるという視座が必要なのである。
神がみているという感受性は総論として日本にはない。人がみているようで誰もみていない。
そんなときに、自分で自分をみるっていう視座があるかというとないのではないだろうか。
自分で自分をみる視座が出来るためには、その前に、神がみているとか先祖がみているとかという、
心の働きが十分に染みわたっていることが大切なのである。
日本は、共同体の空洞化のプロセスを経て、誰も見てなきゃ何をやってもいいんだという見方がある。
上記より「天皇制」は、「自分としての自分」から離れるという視座の二重性を確保するためとしての側面として捉えることが出来る。
例えば、アメリカの場合、憲法を書いた人「ファウンディング・ファーザーズ」の視座をとるという考え方がある。
自分としての自分、自分達としての自分はこう思うけど、ファウンディング・ファーザーズが今生きていたら、こういうふうに言うだろう、神が今メッセージを語っていたらこういうふうにいうだろ。
このような、自分にないものの視座をとるということが大事なのである。
(北一輝は、国体論及び純正社会主義にて、それが「国民の天皇」だとした)
以上。
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