社会学者:宮台真司さんと、晴佐久昌英神父のご対談. 2013.9.14
宮台さんのトーク箇所抜粋版。
後編
前編
1.キリスト教とは
以前から石井隆という映画監督の作品について。
彼の映画のモチーフは基本的にはいつも同じで
堕ちていく女がおり、他方で落ちていく男がいる
視点は男側にあって、地獄に落ち、自分より先に地獄に落ちている女を見出す
その女を地獄から救い出そうとして、最終的には失敗をする
両方滅びるか男だけ死ぬかどちらか。
石井隆は実は海外ではとても人気のある作家で
日本の映画批評家たちはあまり評価していないし
実は結構誤解をしている
つまり石井隆の映画には今用いられたようなモチーフなので
救いがないというふうに批評される
これは非常に日本的だと思った
日本的だという意味は、救いの意味は、とても世俗的。
いわゆるハッピーエンドにならないと
救いがないと考えるところがとても日本的。
つまり御利益信仰的
キリスト教信仰の真髄は御利益信仰のまず否定という部分
とても大事なこと
ベネディクト16世(本名:ヨゼフ・ラッツィンガー)が言っていたが、
主なる神の本質は見る神である。
私が皆を裏切らないようにどうか私を見ていてくださいっていう祈りと
しかし私はあなたのものですつまり私がどうなってもそれはあなたの
御旨の通りにしてくださいというところがポイント
他人を救おうとして、その結果、自分がどうなるか
たとえば他人を救うのはそれによって千年王国に入るためだと考えると
アメリカのエヴァンジェリカルズ福音派と言われる特殊な御利益信仰的な形態になる
ところが元々のキリスト教の中にはそれはない
例えば
ミツワと言われる戒律を守れば救われると考える
ファリサイ派(あるいはパリサイ派)って言われる人に対して救われようと思って戒律に従おう
としている時点で、それはトンマであるというのがイエスの発想で
それがマグダラのマリアのエピソードとして表れている
そもそもトーラー(旧約聖書)は、わざと矛盾に満ちてように編集がされており、
人間が神の言葉はこれであるからそれに従うことによって救われようという得心
自分は神を理解している、神と取引をし、神を制御する
つまり神に私を救わせるような振る舞いを否定するモチーフが非常に重要だというの
がイエスの理解だった。
石井貴士は、その地獄(この世の地獄)に落ちて女と出会って
女と地獄の道行きを共にするということ
ともに仕切るということが実はあり得ないことであって
そのありえなさを貫徹した時点で、実は十分に良い知らせ。
それだけでも十分にすばらしいというカタルシスを
僕は頂くが
このあとに、2人は幸せにならなければならないという風に
日本人は思う
それが日本の宗教社会学的な風土・伝統であろう
映画について言うと、最後にハツピーエンド、福音として
我々が持ち帰れるのかっていうことに関する感受性が随分と
キリスト教文化圏等違う
なかなか日本でキリスト教がひろがらない背景も一つは
そこにあるだろう。
救いというものの意味が、日本の宗教的な文脈とは相当違っている
僕はかなり若いころから聖書を読み込むのが好きだった。
救いの概念、いわゆるユダヤ教のいわゆるファリサイ派(あるいはパリサイ派)
と言われる人たちは
なぜ私たちはこんなに真面目に生きているのに救われないのでしょう
っていうふうに嘆いていた
かつてはこんなに高価な生贄を捧げていたのにどうして救われないのでしょう
神がなぜ働かないのでしょう
と。
ところがそこにイエスが出てきて
私を見よわたしは見れば髪が働いていうのが分かる
というメッセージを伝えた
つまりよく言われるようにあの奇跡という概念がありますが
あれはイエスが奇跡を起こしているのではなくて
イエスを通して人々が、確かに今神が働いている絶えず働いていることがわかる
なぜ神が動かないのでしょう働かないのでしょうというその問い
あるいはなぜ救いが来ないのでしょうという問いは、
イエスからするとナンセンスの極みである
むしろその神が見ていてくれるので
自分は普通ならできないはずの例えば、利他的な振る舞い
自己犠牲的な振る舞いができるという時にもすでに神が働いているっていうのが
イエスの重要なメッセージ
その意味でいえばあのその救いっていう概念が僕たちがそのような意味で奇跡的な
振る舞い、それがなくしてはありえないような振る舞いができる時に
実は実現しているっていう風に理解にするべきもの救いは来ないのですか
なぜ神は働かないのですか
というふうに問いていた
イエスの同時代の宗教的権威
人々に対してそんなことがないというふうに否定した
今ここで神が働いているということ
私がなぜカトリックが好きなのかというと、
やはりプロテスタントどうしても神を見ていてくださいはいいんだが
カトリックにおける「私が皆を裏切らないように見ていてください」
という、この「皆を裏切らないように」という部分がとても見えにくいと考える。
カトリックの方が友愛的で共同体的での奇跡の意味も個人
私にとってのものではなくて皆にとってのものである
そういうところが普遍的なるものに関係している
そういう意味では、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」で示された
宮沢賢治的な法華経の理解もすべて同じ方向
みんなのためにそのありえないようなことができるのかどうか
普通の人ができるようなことしかできないのかどうか
という問いがやはり最終的には奇跡や働きの概念に結び付いていくところが
僕はカトリックが好きな理由である
2.質疑応答
2.1 質問①
「神の計画という概念と東日本大震災3.11の破局との関係をどう捉えますか
あとこれに関係するのですがそもそも神様はなぜこの世界をつくったのですか
なんにも作らなくても良かったのに」
これは神学的にはとても大事な問いで
一般に弁神論(Benshin theory)と言われる分野
つまりもし神がオールマイティーであるならば全知全能であるならば
どうしてこのような悪や理不尽不条理に満ちた世界が存在するのか
これはむしろ神が全能ではないあるいは全能の神が存在しないことの表れでは
ないのかということに対してどういうふうにこれを弁護するのか
古くからの問いである
一般には2つの問いの答え方がある
プロテスタント神学者シュライエルマッハという人、19世紀のはじめに
その問いを整理した
1つめ
ひとつ全ては神の計画であるという考え方
つまりこれは現在論とも関係があるが、神の善悪の区別と人間の善悪の区別は
違う。人間は総体的な存在で神は絶対である
神の意図は我々にはわからないし
当然のことながら我々の善悪関連は神それとは重なっていない
なにせ我々ばちょっと短い時間の命しかなく
共同体といってもとてもちっちゃな共同体しか知らない
仲間を守ろうとすると、仲間の外側はいつも敵になってしまう
浅ましくもさもしい生き方をするしかないような存在
それで、シュライエルマッハの一つの答えは
全ては神の計画だけど我々はそれを知り得ないという立場。こういう考え方
これは主知主義という
2つめ
もう一つは主意主義といわれる
神は全知全能であるのであれば計画も何も神は
望みのままに何をも望みうるのであると
我々はその神の望みが何であるのか知り得ない
しかし神が我々を神の似姿をして作ったので我々も、じゃなぜそのように
するのかと問われて答えられないものはたくさんある
例えば人を助けるという、ある種の利他性
「なぜ助けるかのですか?そうすると天国に入れるからです」
これは因果応報的な答えで理屈によって説明している
こうしたものも主知主義なのだが
「端的に体が動いてしまうのです知らないうちに寄り添ってしまうのです
なぜと言われてもわかりません」
っていうような答えが主意主義的な答えである。
そのイエスの福音書にある良きサマリア人のエピソードも
自分が救われるために利他的であろうとする人間と
端的に子供のように利他的なものが内側からわき上がってくる存在とは存在の形式が
全く違う
これを踏まえていうと、
神がなぜこの世界をつくったのか我々にはわからない
原理的に分かるはずがない
では、なぜ3.11が存在するとかこれも主知主義の立場から言っても
主意主義の立場から言ってもわからない
そのようなことがわかる必要もない
どうしてそれがわからなければいけなのか
内側から湧き上がる力にとってはなんの関係もない
世の中がどういう理由で組み立てられるのかによって自分の振る舞い方が変わってくる
というような在り方はキリスト教的ではない
2.2 質問②
救いというのはすべてのあらゆる宗教を通じて普遍というのは違和感ある。
社会学には宗教社会学という分野があり、宗教社会学者として話をすると
カルトつまり社会と両立不可能な宗教、これは別として
長い間、社会との両立の歴史のある宗教は一般的に社会とマッチしているという
意味で少なくともその社会のある種、普遍性と適合している。
宗教の中も、0特にパリサイ派的な、事細かな
戒律を取り行わないといけないと書いてある宗教は特定の共同体にしか受け入れ難いので
広がりにくい。
キリスト教とか、仏教など、要は生活形式を問わない、
どのような社会生活を送っている人たちにも受け入れられていく宗教は
一般にあの摂理を十分に反映していると考えられていた
これはマックスウェーバーの考え方である
社会学者として喋るというのは無神論者としてしゃべるということ
摂理とは何なのか
一つ例を挙げる
政治家は一般に合法的な枠の中だけで振る舞うべきかという問いがある
例えば、戦争が
個別的自衛権:自分の国を守るためのものと
集団的自衛権:仲間を守るため以外の戦争はつまり防衛のため
の反撃以外の戦争はすべて国際法上違法である
であればそれを一切しない政治家が倫理的なのか
あるいは国内法いつも守る政治家が倫理的なのか
マックスウェーバーはもちろん違うという風に言っている。
法律を守ることに意味があるような社会の存続それ自体が危うい時は
随時、法の外に出て振る舞うべきである
しかしその結果血祭りにあげられることを覚悟せよ
これがマックスウェバーの言う政治倫理であり、完全に普遍的な摂理である
血祭りにあげられる覚悟で何でもするぞという風な覚悟が最終的にないと困るという
のは、政治家に対する期待というよりも社会はもともとそういうふうに出来上がっているということ
社会には枠がある。多くの人は口の中で振る舞うことを互いに望みあう
しかし枠の中だけで振る舞っているだけこの社会が、人々が滅びるというときに
何をなしうるのかという事。
血祭りにあげられる覚悟でその外に出る人間がいないと社会が守れないというのは
これは完全に普遍的な摂理である
これは例外がまったく存在しない摂理。
もう一つの例。
今度は
ミシェル・フーコーが挙げた摂理について触れる
何をしてもこの社会が滅びるとわかっているときに
だったら何もしない
これでいいのか
たとえ滅びることが確実だという風な信念があったとしても
先の政治家マックスウェーバーのいう倫理的な政治家のように
血祭りにあげられる覚悟で枠組みの外に出て振る舞って人々を救おうとする人間が
出てくるべきではないのか
フーコーはこういう態度を、美学的美学という言葉で
これを擁護しましたそうです
この社会がどうして終わるのだからという風に考えていわゆるニヒリズム(虚無主義)に陥るもの
たちだけでこの社会を構成することはできない
これも摂理である
これも全く例外のない摂理である。
社会学や政治学の中には上記のように完全に絶対に例外のない摂理がいくつか見つかっていて
今日まで生き残っているいわゆる世界宗教と呼ばれるもののすべてが実はこうした摂理
を反映しているというのは僕の考え
2.3 質問③
普遍性と摂理についてもう少し詳しく
上記で、社会でいつでも貫徹する普遍的な摂理あると言ったが
別の例を挙げる
利他的な振る舞いの中には端的なつまり内から湧き上がる力に基づくものと
そうではなくて、
そうすると神様が見ていてくれて、それにご褒美をくれるからっていう風に
考えて利他的である人間と2種類いる
いわゆる世界宗教で言われるものは必ずこの2つを区別していいる
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の中にもあるいは「よだかのほし」の中にも明確にこれ区別されている
これも普遍的真理で
これから未来永劫変わることがありません
もちろんこのキリスト教の中にはその
イエスは、キリスト教を始めようとしたのではなくて
ヤハベ信仰は元々こういうものであったはずだから元に戻せという風に
言った人。
元に戻せっていう話の中に
繰り返して出てくるのが今申し上げたモチーフ。
ユダヤ教が始まったとされる同じ頃のギリシアでは
神様がばつを与えるのが怖いから、いいことをしましょう
という立場を依存的で浅ましいメンタリティだと繰り返し批判をして
それに対して、内側から湧き上がる力によって
ありえないようなことをする者がすばらしいんだとずっと言ってきた。
ギリシャのギリシャ的な偉さがどこにあるのかというと
神様が罰を与えるのが怖いからというような神との取引を前提にしないで
端的に理不尽で不条理な力を内から沸き上がらせることができるからだ
こういう発想っていうのは宗教に関係なく深く考えれば必ず
多くの人が思い至る問題になるんですねこの人が端的な意欲で動いているのかそれとも
何か別のその人自身のためになるような目的のために動いているのか
これはみんなが無神論者であろうがなんであろうが日常で必ず
思い至ることがあるはず
そうした問題が普遍性の問題に実は直結をしている
他にも例を挙げると、今、比較認知科学とう分野が広がっていて、
チンパンと人間が約500万前に分かれ以降、それぞれ違う道に入った
じゃあ人間の道というのは、どういう道だったのかという
のも非常にはっきりわかるようになっている
これも人間である以上、普遍的に備えている
つまりチンパンジーが備えていない方向性
例えばチンパンジーしかもっていない方向性
それは、あのフォトグラフィックメモリーが挙げられる
一瞬見ただけでそのすべて覚える力はおそらく人間の30倍ぐらいあるという風に考え
られている
もう一つ
チンパンジーは両手両足がなくなってしまっても絶対に絶望に陥らない
まだ動くからだとか表情を使って
世の中を自足的にそのセルリフコンテントに生きていける
言い換えると、もし
手があったらこれができたのに
足があったらこれができたのに
という風な不在のものに関わる妄想を抱かない
現に存在するものしか見ないのがチンパンジーである
チンパンジーも嫉妬する、人間も嫉妬する、しかしチンパンジは目の前で行われている
パートナーの成功にだけ嫉妬する。
人間はそうじゃない。「そういえば3年前は。。」などとグチグチと言う。
これが人間的。
そういう意味ではチンパンジーは人間に比べれば不幸に陥りにくいというふうに言える
しかし人間はそういう風にして不在のもの、無いものを欲するがゆえに未来をつくる
ことができて、テクノロジーあるいは様々な文明をつくってきたということもある
こういうおkとも普遍的な摂理である
一般には
第2バチカン公会議(1962)以降、カトリックがとってきた立場は
アダプテーション
つまり科学が進歩した、量子力学が、天文科学が、新しい現象を発見した
進化論がさらに進化した
それに対抗するのではなくて、
それもまた自分達の思考に矛盾しない現象として、
自分達の思考をそれに合わせて、変えていく。
それでも貫徹できるような枠組みを考えよう
つまりこれが普遍性の執行である
「社会が変わったら時代が変わったらもう通用しない枠組みだねそれでいいんじゃ
ないの」というのはキリスト教だけではなくてですね世界宗教と言われるものを全体の
オリエンテーション思考とは違う
僕が興味深いと思うのは
第2バチカン公会議はイエスの言葉の福音の中にその原理を発見しているわけで、
つまり紀元70年のいわゆるローマ戦争と言われるものまではいわゆるキリスト教と
いうのは存在せずにイエスの改革運動があったんだが
(原始キリスト教)
この時代のあのイエスの福音のコアは
中核は何だと考えられていたかというと
神は分け隔てをしないというのが最大の福音なのである
だから戒律を守るものと守らないものを分け隔てしない
っていうことはつまりこれ生活形式によって分け隔てをしない民族によって分け隔てを
しないだけではなくて
救われようと思って善なるを行いをした者を救うということもしない
そういう意味では因果応報
世俗的な意味の因果応報は否定されている
神は分け隔てをしないということは教会に所属している人間しか救われない
これもありえない
神分け隔てをしない
これが、敵に対する態度をも決める
いろんな意味で
共同体があれば共同体を侵害するものが現れて
少なくともの敵への対処をすることになるんだが
基本は神は分け隔てをしない
つまり向こうも共同体を生きていて同じような理屈で動いている可能性がある
右翼ではこういう立場を右翼国際主義という
自分の国が大切だと思っている僕たちとやはり自分の国が大切だと
持っている別の人たちがいて同じ動機で同じことをしているだけなのに
対立をしているっていうの発想から対立に当たるというのが
実は神が分け隔てをしないという福音を知った者たちの戦争の仕方なのである
2.4 質問④
自分の性に自信が持てません。性愛とは何でしょうか。
僕は男女素敵化講座というワークショップや、愛のキャラバンという
電子書籍も出している。
どうして僕がこれをやり始めたのか
理由は僕はずっと売買春のフィールドバッグをしてきた
あるいは薬のフィールドワークもしてきた
最近またフィールドワークを再開をした
基本的に状況はやはり変わらない
例えばわかりやすい例を一つ挙げる
今でも東大生で売春をしている子、医学部の学生で売春をしている子は相当いる
実際そういう形の話を聞くこともできる
この子たちに理由を聞くとまず好奇心だと答える
しかし。
それで話が終わるわけではなくてさらに深く話を聞いていくと必ず親への恨みが出てくる
この親への恨みはこの親さえいなければ私は別の人生を営むことができて
はずなのに別のことを知ることができてはずなのに、というタイプの
もの。
東大生や医学部生だったりするので、親は
子育てに成功したと、多分思っている
しかし子供はそう思っていなくて
この親でなければ知ることができた世界があったのかもしれないのにっていうのが
実は好奇心という形で現れる
実はここで初めて公に明かしますが僕自身が実はいわゆる
11年間、ナンパに明け暮れていた
思い返すと、やはりそういう種類の恨みだった
僕はずっと早生まれていろんなことができなかったのだが
ちょうどそれを克服する時期と、母親が突然教育ママに変じる時期が重なっていたので
母親から見ると親から見ると親の言うとおりやったら僕が30:02
どんどん成績もよくなってリレーの選手にもなってなんとかかんとか
僕は自分で全くそのように思っていなくて、
化けの皮を自分の上に積み重ねていった
自分では、やはり好奇心という風に自分で自覚しているが
今から思えばやっぱ親によって奪われたものを回復するという観点から
その性的な方向に乗り出したということがあった
恨み、例えばヘイトスピーカー等がいるが
イデオロギーの問題ではなく、佇まいから恨みを感じる
あるいはひきこもりの子たちの多くも
恨みをペースにして俺を困らせるために引きこもっているという面があったりする
このような恨みはインターネットのナンパ系の連中に一番強く感じる
ナンパ系の連中には社会学でミソジニーと言うが
女性像を感じます女性をモノかして
うまく取引してコントロールすれば自分自身の全能感が承認感覚が上がったように感じるといったような非常に浅ましい感じ。
このような人間たちが、量産されるがままにしておいて、
制度を変えれば良い社会になるとか
良い指導者が生まれればよい社会になるとか
あるわけない
そんなこと馬鹿げた発想
それこそ依存的な発想で書記ギリシャの人が聞いたら聞いてあきれるようなデタラメな発想
自分たちの周りの人間たちにバーチュー内から湧き上がる前なる力がどれだけあるのか
言い換えればうらみベースではなくなく、希望ベースで前に進めるような人間たちが
どれだけいるのかあれそういう人間たちを育てたりあるいは自分から感染させて広げて
いくような流れにどれだけ、棹さしているのかということが問題で
そういうことでは解決がつかない人々がなんでこんなに恨みベースで振る舞うんだ
と何かを変えようとか
政府を場合に入った転覆させようでも構わないが、あるいは敵は誰もそうでもいい
いろんなことがあるが、そこに恨みがあると必ず人は
憤激によって見境が亡くなり浅ましくなる
世の中はまあ仕方ないことがいっぱいあるけども
であるがゆえに恨みベースであればわれわれは
でたらめな社会をさらにデタラメぶりを加速させる方法で振る舞う
これもほとんど摂理である。
性愛も友人関係もそういう意味では全部同じで
恨みベースで振る舞っている限りは性愛が得意だとかナンパが得意だとかっていう風に
言っていても僕らから見るととクソと同じ
何も変わっていないモテない時代と
モテるかモテないかというの現象の問題
僕から見ると子供に好かれる大人達っていうのはすごくその内から湧き上がる力がね
まずは感染を引き起こすタイプの人
こういう人は、本人が「私は女が苦手」とか「男が苦手」とか言っていても
僕から見ると背中を押せば一緒でモテる奴に早変わり。
内から力が湧き溢れてるんだから
ハンサムとか教養とか関係ない
内から湧き上がる力によって希望ベースで生きる人間は
必ずハッピーネス、幸せを人々に感染させるので近づきたいと思わせることになる
それも摂理
だから小賢しいテクニックの問題でなくて
普遍的なものを見通さないで
いいとこどりをどれだけしようとしても無理だということ
2.5 質問⑤
宮台さんから見た日本の思想界でキリスト教の影響はまあどのようなものがあるか
実はほとんどない。結論である
キリスト教に積極的に言及した
学者さんは吉本隆明さんがいるし
小室直樹さんがよく言及した
橋爪大三郎さんや
僕も比較的、キリスト教に頻繁に言及をしている。
やはりちょっとプロテスタントの影響が強いせいで
僕から見ると吉本さんも小室さんも橋爪さんも共通の誤解をしておられる
それはマグダラのマリアの問題に対する解釈で
戒律を守ろうとしている人間に対して
自分にイシツブテを投げる資格があると思うものは投げろと言われて誰も投げられ
たかったっていうこのエピソードを持って戒律を守ることよりも内面が大事だっていう
新しい約束を切り開いたんだという風に説明されている
これは間違いで、イエス、もともとヤハウェ信仰はそういうものではなかった
ラビが戒律と読んでいるものは全て人が作ったミツワと言われる人が作った
戒律集で、もともとトーラー(律法)は矛盾に満ちていて
それに忠実に生きるということがそうそうできないように
それはいろんな事情があったんだが、何故四福音書が矛盾した
まま新約聖書の中に入っているのかという問題でもやっぱ響き合う問題
そういう意味では肝心なそのキリスト教の重要な思考が
日本の知識人には伝わっていないという気がする
カトリックにとった共同体が大事だというふうに前述したが
例えば最近また僕はフィールドワークを始めた
風俗は3つの世界に分かれていて
ネグレクト。自分は誰からも見られていないというふう
に思っている
子どもたちは非常に社会的みたいに壊れた人間になりやすい
嘆きのピエタを前述したが、国の鬼才キム・ギドク監督、
凶悪や暴力的な犯罪の渦の中で生きてきた男が
小さい時に母に捨てられており、母が現れて絶えず自分を見ていて
くれて状態が続くことでだんだん自然に見られていることによって
悪ができなくなりやがて善を行なうようになっていく
ところがちょうどネタバレするが
この母親が本当の母ではなくて、凶悪な男に子供を殺された恨みで
主人公の凶悪な男をおとしいれる母親のふりをした女。
ありとあらゆるものを受け入れるマリアのようにその男を肯定
することでその男がどんどん善人になっていく
最後に自分は本当の母ではなくて復讐のためにやってきた存在だって事を知らせて
その男を殺そうとすることでその男を地獄に落とそうとするだが
実はここから先が大事な問題で
その最初は不利で
マリアのふりをして
男を改心させた、その改心させた男の眼差しが
彼女に感染をする、彼女に感染して復習をしようとする時に復習ができなくなって
しまう。
これも非常に僕としては重要な普遍的な事柄を描いているという風に
思っている。
我々は誰にも見られていないと思えば
ひどい存在になる
それは神でアレを親であれ誰であれ多分同じかもしれない。
しかし世の中には親のいる人もいればいない人もいるし
いろんな境遇の人がいる。
その時にも見る存在がどれだけ大事なのか
ということは今の話からも分かると思う。
人は見られなければダメなのである
見られなければダメな存在なのである
みるということは
とても大切なこと
色んな人を自分の子供だけじゃなくて近所の子供とか
子どもだけじゃなくていろんな人を見る
ということがとても大切
日本の場合、みるって言う言葉がケアと同じ意味を含む
お医者さんのメディカルケアのみも含む
日本人は言葉自体の中にとても普遍的な摂理を畳み込んでおり、
お互いやっぱり見ない存在が社会をダメにしていくんだろうというふうに強く思う
3.まとめ
イエスの死と復活あるいは十字架を負った者たちの振る舞いは
洗礼、バプテスマという発想の中に含まれている
バプテスマは、深く水に沈めてから取り出すという
非常に危険の伴う儀式。
危険の伴う儀式は、日常社会を生きている状態とは違う意識である変性意識状態
に陥る。これがつまり死と復活のたとえ(メタファ)になっている。
1回死にかけたものはその後振る舞い方が変わる
これと同様の考え方である。
僕たちよりは自分が引き起こした
ひどいこととかですね
自分を犯した罪は
つまりを行ってしまったことは出来事としてはまったく取り消せない
その取り消せないということが、バプテスマの概念と結びつく。
我々は沈むことによってしか見えないものがたくさんある
深く沈んで者にしか見えないものがたくさんある
それが見えるから許すこともできるし
それが見えるから利他的であることもできる
という要素当然含んでいる
だから順風満帆で希望に満ちた
いわばご利益満杯の人生を願うものは
残念のことながらこうしたし摂理をわきまえていないし
不幸が単なる不幸だと理解をする人たちもやはり
死と復活のメタファをわきまえていない
十字架を背負ってる者にしか奇跡の振る舞いはできない。
そのことが摂理としてどれだけ腑に落ちるかということが大事
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