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ニヒニズムとどう抗うか




大きな話として言えば

アメリカも他の国もそうなんですけど

非常に無力感が支配してるわけですよ


自分がやっただけでは

どうにもならないだろうって思ってるわけ


だから選挙の場合でもそうで

本当だったら自分で政党を作ればいい

メディアもそうで不満だったら

本当は自分でメディア作ればいい

でも既存のアーキテクチャの不備もある

あるいは賛同してくれるような人

たま数の少なさもある

あるいは既成事実がないので

お金の集まりにくさある


とりわけ日本の場合ですね

そのオルタナティブなアーキテクチャを作り

その下でですね従来ありえなかったようなアクティビティ

厚みのある活動するんだって

いう所に、人を動員できないわけですね


この問題っていうのは

日本でも古くから

多くの人間が直面してきた問題なんだけれど

例えばなぜ三島由紀夫がね

そこで行動と美学ってことを言い出したか

言い出すざるをえないのかって言うと

こうすればこうなるというですね

サブスタンシャル(現実的な)な見通しの下で

何か活動の動機付けを調達しようとすると

見通しが非常に暗いんですよ だから

だったら美学としてやるしかないと

つまり無駄骨と知りつつ

他山の石となることですね

期待して行動するのがね

武士なのだみたいね


これも

当時も馬鹿げた発想として批判されたし

僕も馬鹿げた発想だと公式には言いますけれどもね

あのなんで

そういう事を言わなければいけない

人間たちが出てくるのかっていうことは

やっぱりよくよく理解した方がいいです


ニヒリズムの一番深い論議は

そこにあるわけですね


例えば

国内の犯罪に対して断固対処しろ

重罰化だ隔離だ排除だ

国外の国際テロについてもですね

断固対象だ、テロての殲滅(せんめつ)だ

それに対してね

それこそ症状的なレベルで私達は話すこともあって

そんなことをしたらね

あのむしろ怨念を蓄積して

テロや国内犯罪はむしろ永続してしまう


しかしそれで納得してもらったら

本当はダメで

そんなことわかってやってる可能性があるわけ

やってる人間がいる可能性があるわけ。


「テロの永続こそ俺の望みだよ」

「国内犯罪の永続こそが俺の望みで

 それによって断固たる措置をとる」

とか

「断固たる措置の背後にあるイデオロギーや

 思想性を擁護する」

とか、あるいは場合によっては

「経済的な権利を擁護する」

とか


そういう人間が確実にいるんですよ

そうするとエイズの話と同じだね

それは怖いことになっちゃいますよとかね

こうすれば怖い事態を回避できますよ

と言うだけでは足りなくて


ニヒリズムは

冒頭に話したことと完全に絡むことですよ


自分たちがこうやって生きてること

車に乗ること飯食うことによって

どういう被害を南側に、あるいは子孫に残してるか

薄々分かってるけど

分かったとこでどうにもならないじゃん

というニヒリズムとも関係があるんですね


こういうレベルの問題は

今僕の見る限りはですね

かなり顕在的に出てきているわけですね

例えば引きこもりっていう事態が持っている

その根本的な問題を

軽く見すぎてる気がするんですよ


つまりね

僕は昔から言ってますよね

引きこもりは良くない。

引きこもらないで

社会に出てくれば、みのりがある。と

本来みのりがある社会に参加するっていうことは良いことだし

本来みのりの社会の公共財に貢献することも良いことで

引きこもってたら、よくないことだよ

って言えるんですけれどもね


この社会そのものが

社会の中に存在するコミュニケーションそのものが

そもそもみのりがなく

そもそも公正さを全く期待できず

参加するだけ無駄だっていうようなことで

あったんだったら

その社会を成り立たせるための公共財

あるいは共有材にコストは払えとかね

倫理的に振る舞えとか

ソシアルコントリビューション(社会貢献)しろとかっていうのも

全く通用しない話

これ引きこもりのどのレベルでもいいことなんですけどもね

そういうその僕たちが

ちょっと前までは自明だった

社会を生きることは意味があることだし

人生にも意味があることだし

他者と関わるコミュニケーションにも意味があることだっていう

風にね今まで多くの人が思ってきたじゃないですか


ディスポジション。いわゆる傾向性ですよ

ただ昔はその傾向性が永続すると思ってわけ。

だから

その僕なんかもよく参照する

あのプラグマティストであるリチャードローティ

何ていう人もね

そういう人間の傾向性が

最後の砦だって言ってるわけ


リベラルな原則とかね

正義なるものはいつも境界があるわけですよ

これも言ってきましたよね


自由は平等が大事だ


誰の?アメリカ人の?白人の?

地球人全体の?

じゃぁ地球人はいいけれど

じゃぁ将来ね、高等補修類はどうなるの?

とかですね

あるいはその知能が重要だとすると


知能ない人間はどうなるのとか

結局人間の範囲はどこになるの?

っていう将来たぶん

すごい問題なってきちゃうんでしょ

ところが

リチャードローティ的に言うと

今のところ幸いにして

どこまでが人かと

言い換えれば

どの範囲が自由であったり

平等だったりしなければならないのかって

いうことについての

たまたまの合意が成立しやすい傾向性があるので

それを生かして感情教育をしようと

感情教育というのは

簡単には

悲しみを感じるようにしよう

とかってことなんですよね


先ほど僕が申し上げたことは

リチャードローティが想定するような傾向性が

脆弱なものに

変じているように見えるわけです

それは僕から見るだけであっても

多くの人が現にそう感じているわけですよ

エリートから末端

そういう時に

これこそが公正であるとかね

こうしない人間はフェアではない

とかっていう風な言い方では

足りない部分が出てきちゃってるんですよ

とても自然が大切だったっていうのも

ディスポジションなんですよ



例えば沖縄の海に不要なコンクリートたてていき

経済的にたべていくやり方もある

だけど、それはいけないことですよねって

私達がいうときには、必ず

こんあ美しかった海は

こんなになってしまっているんです

とか

100年後に何が起こるかわかりません

とかっていうですね。これって

人々がそれまでそういうことを気にするはずだったっていう傾向性。

ディポジションによって訴えてるわけ。


でも今起こってることはね

そういう傾向性を持たない人間が

どんどん増えてるって事なんですよ


で僕自身もそういうディスポジションをね

どこまで持ってるのか

自信がないんですよ


50年後100年後、分かりやすく言えば

俺が死んだ後

何がどうなったって知ったことがない

知ったこっちゃないっていう気持ちが

どっかに自分中にもあるかもしんないし

自然が大切なんていうのもですね

それこそソイレントグリーンといえばじゃないけど

これだけハイテク社会が進んだんだから

3D立体映像に保存していただいて

ゴーグルなんかハメたり

脳にチップを埋め込めば


あの自然豊かばりし頃を

すべて体験として再現できるようにすれば

地球上の自然なんか

全部ぶち壊しちゃったっていいじゃないですか




でこういう構想を展開すると

マトリックスみたいになるんですけどね


マトリックスみたいな社会であっては

いけないっていう理由を説明するの難しいですよ


マトリクスという映画は、ボリューム1でも

サイファーって男が出てきてね

このマトリックスの中で

安穏として暮らしちゃいけないっていう

倫理的な理由があるのかってことですよ


ないんですよ。もちろん。

人々がそういう

「これは嘘世界だ」っていうことを知ったら

怒るだろうとか

ショックを受けるだろうというディスポジション

傾向性に訴えかけて

あの映画の世界成り立ってるんだけど


やっぱろあの映画を見るときに

僕たちはバーチャルだったらいけない

真実が大切だということは

これからどこまで維持可能な人々の心の傾向性なんだろう

って思うわけ


ちょっとすごくディープな話になってしまいましたけどもね


人の問題が重要だっていう風に言う時には

すごい深い意味がありましてね

アーキテクチャを変えれば人はこうなるだろう

というのも

やっぱどうしてディスポジションを前提にした話なんですよね


それが崩れてきつつあるって事があるとすると

アーキテクチャを変えると同時に

例えばそのディスポジション・傾向性を

維持することが重要だとか

必要だと思う人間がね

そういうディスポジションを維持するのに

資するような活動しないと

本当はもう難しい状況に来つつあるのかな


だからこれはねすごく

ぶっちゃけだわかりやすい話をすれば

何が良き人生なのかっていうことについての


想像力ですよね

イマジネーションの想像力


この引き出しを

どれだけ社会が用意できるのかってことが

僕は最終的に言い換えれば


何がよく生き方なのか

よきっていうのは

善人の善の字をを書くだけじゃなくてですね

良いグッドな生き方なのかってことですよ


正しい生き方かもしれない

利権を喰らい尽くす生き方かもしれない

あるいは世の中の苦難を全部背負い生き方かもしれない

あるいは単に楽チンにモノを考えないで生きていくことかもしれない

思考可能なことを全て考え尽くす生き方かもしれない


その引き出しをどれだけ準備できるのか

ということによって

その合理性によってだけは

説明つかないようなですね


コミットメント


どっかに不合理な線を引いて

その中を守ろうというコミットメントかもしれないし

引き出しが少なければここだけを守ろうっていう

そのここだけのlineが非常に狭いと困るけど


引き出しが多ければですね

こういう線も引けるああいう線も引けるっていう風にして

簡単に言うと

そこでコンフリクトが起こるわけですよね


コンフリクト

これは多元性を準備する

あれは調査するためにはどうしても必要なことだから


何が良き生き方なのかついての想像力のバリエーションが増えて

色んな所で線引きのコンフリクトが起こり

従って解決は

合理的な理論に基づくわけじゃないのでね

いつもその都度のアドホック(一時体なその場限りの)な線引きしかあり得ず

従っていつでも変更可能で。

っていう風にしてね社会を運営していくしかない

と思うんですよ


ただ何でも言ってきたことだけども

これはそのいわゆる

もの考えないで楽に生きていこうっていうような

タイプの行き方にとってはね

めんどくさい生き方だしコストのかかる生き方なので

万人がそれに吸引されてことは

絶対にありえないんですけどね


まぁそういう意味でいうと

やっぱり人々の

特に若い人間たちのイマジネーションのね

可能性を切り開くような方向で

文化的な可能性を多様な形で作っていくしか

ないんだろうというふうに思います。



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