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引きこもるのは : 宮台真司




~宮台さん~

フィールドワーカーとしてやってた頃に取材をして

まぁ今回また引きこもりとかですね

自殺サイトのことでもちょっとフィールドワークをしていろんな人の話を聞きましたが

ほとんどみんな判で押したように同じことを言うんです

でこれはねあの社会学者あるいは社会思想を研究してきたものからすると非常に感慨深いですよ

つまりねキーワードは社会的流動性なんですよ

例えば昔、終身雇用制があったころはさ

自分は入れ替え可能じゃなくてずっといられるじゃないですか

でも今能力さえあればどこにでもいけるっていう良い社会

逆に言えば能力がなければいつでも切られる社会ですよね

つまり自分がそこにいるのが能力があるから、能力がある奴は他にもいる。

で実はそのプライベートな人間関係も同じで

私がこの人に好かれてるのはかわいいから、でも可愛いやつは他にもいる。

僕が好かれているのは例えば頭がいいから、頭がいいやつは他にもいる。

つまり社会的な流動性が高まるだけで

これこれだからこの人が好きだから、とか、これこれだからここにいる

っていったような

これこれだからっていう理由が全部入れ替え可能性の根拠になっちゃうんですよ

つまりこれこれさえ満たせば何であってもいい誰であってもいいっていう風になる訳です

でそうするとね

その社会的流動性の高まりは

経済学者からするとこれはある種非常に合理的なね、ってことですよ

規制緩和の議論の背景にもなったりすることだけども

しかし例えば経済学あるいは経済思想を遡るとね

例えば黙約とかあるいは

その道徳的感情、道徳感情でもいいんだけども

人々が自由な経済行動をする基盤にあるようなリソース

それは感情だったり

共同体の共通感覚、コモンセンスだったりするようなものだったりするんですけどね

そうしたものがもし消えていくと

つまりありとあらゆるものは入れ替え可能で流動的になっていくと

実は相当にやばい事が起こるんじゃないかなと。


例えばオウム真理教の事件

あるいはその他いろんなカルト将来の事件を見ても分かるように

このような入れ替え可能な社会はどうでもいい社会であるから

したがって社会的なルールを守ることにも意味がない

意味があるのがその宗教世界だけ

あるいは宗教的な承認だけっていう風にして

むしろ社会に対する態度は非常に軽い


アモルフ(決まった形を持たない。無定形)というかむちゃくちゃなものになってしまう可能性もあるわけですよね

で、ちょっと結論結論と言うか何を言いたかったかって言うとですね

あのー例えばそのネオコンあるいはその背後にあるネオリベ的なですね

犯罪者を潰せみたいなですね


発想そしてその背後にある、ある種の不安、そして不安を取り除く時にどうしたらいいのかっていうときに

もちろん個人的なね処方が色々あるんだと思うけど

これが社会現象として生じているとするならばやっぱりね

社会の中に存在するということの実りを多くするしかないし

社会的なコミュニケーションをすることの実りを多くするしかない

と思うんですよ

例えばこれ以前

ねあの斎藤環(たまき)さんと議論した時に

斎藤環(たまき)さんは引き込まれ良くないってことをおっしゃって

僕はちょっとそれは違うと

そのひきこもらないで社会に戻ったときに

そこで実りあるコミュニケションがあるんだったら

社会に戻れよと。まあ自信を持ってね社会はいいぞ

とか言えるんだけども

僕も思ってないし斎藤さんだって本当思ってないだろって言ったら

社会に戻って何どんな実りがあるんだよ

そう思えばね

いや親の社会的なコストがかわいそうとか

それは社会を大事にする発想であって、初めて計算する気になるものでね

もう社会なんかどうでもいいと思ってたら

利用するものは何でも利用して退却するぞっていう話になる訳ですよね

ひきこもり、自殺の問題、あるいはある種の僕の言葉で、脱社会科

だけども別に社会の中で生きていこうと思ってない

みたいな発想、それは、

宗教がベースにある場合もあれば

生い立ちがベースになる場合もある

と思うんだけども

こうした総体の背後にあるのはやっぱり

つまり自分が必要とされていない

社会も必要としてないし

どの個人も必要としていると言っているけど

実際には俺じゃなくてもいい私じゃなくてもいいということは

初めからお見通し

親にとっての子供もそう

俺じゃなくたって別に成績良ければ誰でもいいだろう

っていう感覚で

これをやっぱりどうやって緩和していくのかっていうところにね

やっぱりいたってると思うんですけどね

多分皆さんにわかりやすい話をしてイメージを作っていただきたいと思う。


例えばねポルシェって昔年間八千台以上車作らないと決めてましたよね

でメルセデスもあの年間二万台以上車作らないって決めてましたよね

でこれはなぜなのか

なぜ今それができなくなってるのかっていうこととを考えると

非常に物事のヒントになると思うんですよ

でもちろんドイツにはマイスター制っていう

伝統的なコモンセンスっていうか、良きものがあって

シェアを拡大する

例えば売上を増やすために

2万台を20万台にしようじゃないかっていうふうにやった瞬間に

例えばその会社の文化が変わるその会社の例えば

メルセデスを作るっていう生き方の意味も変わる

ポルシェを作るっていう意味も変わる

しかし、やっぱり意味を変えたくないコミュニケションの質を変えたくない

だからそれを売ろうと思えば20万台売れるだろうと。

だってそれだけ注文が来てると

でも二万台以上はつくらねえんだっていうふうにやるっていう

やり方はね昔からありました。

江戸時代はね、まんじゅうを一日50個

それ以外容器があっても50個って決めてるから

もうそれ以上は絶対売らねっていうのと同じですよね

伝統社会には

そういうものがあった訳です

で、それは維持できないわけですよ

当たり前ですけど、よく言われるように

あの年間3万台以上絶対作らない売らないと自動車会社は絶対に立ち行かない

っていう風に言われていて

で、それで一時期はやばいなって言われたりしてた時期もある

つまり国際競争の時代になっちゃったので、規模がある程度確保しなきゃ難しいということで

メルセデスも、っていうかダイムラーもクライスラーと合併したりしました

で、そこで。なんですよね

愛国心の話でもあの国益の話でも何も考えてもいいと思うんだけど

やっぱ国家っていうのは乗り物だと思うんですよ。ま、バスです。簡単にいえばね。

乗り合いバスというか大きな長距離バスのようなものですね

そこに運転手と乗客がいる訳ですよ、でその運転手が乗客が選んでいるわけ

この場合だから運転手っていうのは統治権力ですね

で、その運転手はもちろん乗客に対して責任を取ってるわけで

その目的地まで安全にバスを運転してお客をそこに届けると

あのなぜそのバスに乗ってるのかって問題だよね

で、そのバスには人と一緒にやっぱ荷物が乗っててやっぱりそれがね

ヘリテージ、相続財産

つまりそのバスにずっとバスの中に乗せてきた良きモノなんですよ

で、そのバスがどこに行くのかっていうものも

バスに乗ってる人たちとバスに乗っているモノ

良きもの、ヘリテージがおのずと決めている、こっちの方向にまず走るんだと。

そういうことに合意されていれば

簡単に言うと今日の混乱って非常に起こりにくい


~神保さん~

そんな悪いバスじゃないですよ

僕第三世界とかいっぱいありますけど

実はエアコンも効いてる相当いい三食付きの相当いいバスなのに

自分の居場所がないって話になるとですね

やっぱりバスがどこに行ってるかわかんないから困っちゃってんじゃないかなっていう思いがどうしてもある


~宮台さん~

つまりねあの日本って何でこのバスに乗っているのかとか

このバスにどういう良きものがのってるのかっていう議論をね

やっぱしってこなかったじゃないですか

で、何がヘリテージなのかっていうのはもちろん


ベネディクト・アンダーソンさんが言ったように幻想だと思うんだけど

自分たちがどういう良きものを守ろうとして守ってくれっていう風に

統治権力に期待をしているのかってことがなければね

結局、国が、つまり運転手が向かう方向がいいことだとかですね

自分たちの乗ってるバスがのっているということによって

良きことだっていう、本末転倒が起こって

更に言えばね

じゃあこのバスに何が乗ってるからよきことであるのかっていうことの議論はね

実は日本で全然できてないし今もやってないし

でもそれは三島由紀夫じゃないけどあの近代天皇制がね

やっぱりこれ抑圧しちゃったかと思うんですよ

天皇だけが入れ替え不可能で

あとは全部入れ替え可能って和辻 哲郎とか三島由紀夫の議論ですよ。簡単に言えば。

だからこういう社会であればね

三島由紀夫の言ったように天皇を人間化してしまえば

最後に残った入れ替え不可能なものも入れ替え可能になるんだから

もうこのバスに乗る必要はない

このバスに乗っている理由はない

このバスに乗っているものはなぜ良きものなのか全く分からない

っていう風になっちゃうと

実はその愛国心というのは

あの国民的な財産を守るために国に頑張ってくれっていうことだよ

と国だから愛せよ、統治権力だから愛せよってことじゃないよ

って言っても、じゃあどういう良きものね、持ってもらうのかっていう

イメージが湧かなかったら

いったい何を統治権力に期待していいのか分からないっていう

そういう問題にあるし

一方に僕たちの社会が何があるから怖いことになるのかとか

だからそういう小さなことで「あぁこれで社会が駄目になる」

ってことですね、ヒステリーが起こるでしょう

自分について、自信もないので、だからその過敏に振る舞うっていう部分がもしあるんだとすると

例えば自分たちは現在こういう良きものを持っています

とか将来持ちえますっていうことでもいいんだけれども

ある種の懐の深さに相当する部分がないと

過去の歴史を引き受けるってことは多分できないと思うんですよ

でその懐の深さに相当する部分を、さっき言ったヘリテージなんだけども

それをやっぱり議論してこなかったし

議論する必要ないのが近代天皇制の特徴だったので

やっぱりかなり負債がつまりその分の負債があると思います

つまり自分たちは懐の深い、自分たちは駄目だっていうふうに言うことができるだけの、

ちょっと自信とも違うと思うんだけど

懐の深さとしか言いようがないような

ある行為態度を養成するためのやっぱり努力が

これからもたぶん必要になるんだと思うんですよ

だからそういう意味で例えばね最近の若い人たちの中で起こっているような動きってあるんですが

僕はサブカルチャー研究者でもあるんですけどね

例えば四年前、三年前か、クレヨンしんちゃんの映画のシリーズの中で

そのモーレツオトナ帝国の逆襲というのが作られて

それつまり昭和三十年代的な世界には、においがあったけれども

今のまちにも人にも全くにおいがなくなったので

この社会に生きてても意味がないっていう大人たちが三十年代テーマパークに入ったら出てこれなくなっちゃう

そこからクレヨンしんちゃんが奮闘して大人たちを引き戻すって話なんですよ

これはもう非常の名作として評判になったけれども

実は同じようなタイプのアニメションっていうのをね

細田守しかり、宮崎駿しかり

同じモチーフを持ったものっていうのもたくさんアニメションで量産されていて

他方でお台場一丁目商店街あるいはその下北沢にも何百件ってあるんです。昭和三十年代グッズ店。

つまりやっぱり今あるものはにおいがない

今生きているその人間にも自分にも臭いがない

つまり必要とされてないとか居場所がないとか

でも何でも同じなんだけど

やっぱそういう感覚っていうのは非常に高まってて

他方でそれを回復しようっていう行為態度というか

傾向って出てきてると思うんです


~神保さん~

ヘリテージと自分の存在価値っていうのは無関係なことではないという意味ですね。


~宮台さん~

そういうことです



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