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私たちの進む道 with 未来授業

朝日地球環境フォーラム2011 未来授業







10・20・30年後に皆さんが幸せな毎日を送ることができるかどうか

幸せな毎日を送るために必要なことは何であり

今何をすればいいのかということを考えることが重要


20年後の自分は幸せな毎日を送っていると思えるか?

今の自分は幸せな毎日を送っていると思えるか?


社会がどういう状態にあるのかを表すいろいろな社会指標がある

それをみると今の日本社会は、ほぼボロボロである。

これは震災によってボロボロになったのではなく、震災前からほぼ完全にボロボロな状態である


自殺率は、日本はアメリカの2倍、イギリスの4倍である。

超高齢者所在不明問題、乳幼児虐待放置問題、孤独死、無縁死といった問題も蔓延している。

村八分という言葉がある。残りの2部は葬式と火事。

これは仲間はずれであっても少なくとも葬式は必ず出してやるということ。


日本の幸福度(2011年時点)は第75位

日本の一人当たりGDP(2011年時点)は世界第23位(2019年に韓国は日本を抜いている)

国別のGDP(2011年時点)は中国に抜かれ世界第3位(2017年に中国は米を抜いている)


問題はなぜ幸福度がこれほど低いのか。

政治に何を望むか 多くの人は経済成長と答える。こう答えるのは

先進国の中でも日本だけかもしえない


経済が成長しても人は幸せになれないのがグローバル社会の一つの大きな特徴である


原発を続けるべきかやめるべきか。

あるいは続けるべきではないがやむを得ないという人もいるだろう

出来るだけはやくやめるべきだと思う。


日本は以前、原発点検で一度、国内全ての原発をとめたことがあったが、

それでも経済は回った。これは夏のような一番需要が大きな時期ではなかったからとう議論もある

日本は日本全国どこでも15%以上の節電に成功している。もっとたくさんの節電に成功したところもある

原発を一切運転しなくても、

日本の電力需要は、現在もっている水力発電や火力発電を使えば、まかなうことが出来る。


それよりも重大な問題は、原発に関する神話である。

原発は安い 1KW/hあたり5.6円と言われていたが。これはウソ。つまりコスト面で安いというのはウソであった。

原発は絶対に安全だ。これもウソ。

更に環境にやさしい。これもうそ 二酸化炭素は温暖化に影響があるが毒ではない。

しかし放射性物質は毒である。


日本ではいろんな情報操作があった結果として、絶対に安全安心で環境に優しく一番安いんだという議論がなされてきた。

原発を立地するときは一般会計や特別会計から、国家予算がジャブジャブつぎ込まれている。

税金でまかなわれている。それは電気料金から徴収されていない。故に電気料金だけ見れば安く

みえるかもしれないが、上記のような投入される税金も含めた総額でみると、膨大なコストになる。

また原発事故に伴う賠償金も想定されていない。


このことからいえるのは、

原発をどうするかではなく、原発をやめられない社会をどうするかという問題だと考えることが大事

前者が技術的合理性それに基づく政治的合理性の問題だとすれば

後者は社会的合理性の問題。


似たことが過去にみられる

戦争である。

「この戦争は必ず日本が負ける」と考えていた指導者がいたにも関わらず、なぜ戦争をしたのか

例えば日米開戦の直前に、総力戦研究所という若手の陸海軍将校と官僚エリートからなる

いわゆるシンクタンクが、日米開戦したら日本の勝つ確率はどうか。様々なパラメータを調整して

シミュレーションした。どんなにパラメータを調整して日本の勝率はゼロパーセントだった。


そして陸軍参謀本部、海軍本部に、この議論が挙げられた。しかし開戦された

そのときの理屈は、短期決戦であれば勝機あり。であった

しかしそのあと、極東国際軍事裁判で、いわゆるA級戦犯といわれる方々の証言は

全員が今さらやめられないと思った。空気に抗えないと思ったと言っている。

つまり技術的政策的合理性が無いと承知していても、今さら止められないというロジックで

物事が進んでしまうという非常に奇妙な特徴がこの日本の社会にはある。


全員が今さらやめられないと思った。空気に抗えないと思ったと人々が答えるときの

その「空気」を支えるものを悪い共同体と呼ぶことが出来る。


こういったことは、学生が社会にでて会社に入り、何がその会社の合理的な経営方針なのか

ということを考えそれを実行に移す、あるいは移させていくときにも必ず直面する問題である


誰かがいうことであればだいじょうぶだという依存的メンタリティが、見られる。

自分でいろんな情報を摂取し、自分たち(仲間)で話し合って、この多種で多用な

情報をどのように判断するべきかということが大事。


データを参照してどのような解釈が合理的であるのかなぜ信じるべきなのか、

なぜ信じてはいけないのかを合理的に議論をする。

データを根拠にして出来るかぎり合理的にどのような考えるべきなのかを議論することが大事。


日本では原子力発電の技術的合理性、つまりどのくらいリスクがあるのか、コストは、

どのくらい環境に対して優しいのか優しくないのか、ということが議論された気配

が全くない。


東京裁判でも、「今さらやめられないと思った。空気に抗えないと思った」と言っているが

原発でも、同じセリフを、原子力村の方から聞いた。


日本は日本国憲法が動き始めた1946年以降、民主主義国家になったはず。

しかし何も変わっていない


日本は民主主義の国家ではない。なぜか

民主主義の基本は、引き受けて考えること。

引き受けた人間たちが議論をして、最後は多数派政治で決める。これが民主主義。


日本では引き受けて考える作法のかわりに、

まかせて文句を言う、あるいはまかせてぶーたれる作法が一般的。


任せられる側が、知識や科学的合理性を参照する議論をしていればいいのだが、

残念ながら日本は知識を尊重するコミュニケーションよりも

空気に縛られるコミュニケーションの方が優位になる。


日本での政策的誘導は、日本でしか見られない

市場を経由したコミュニケーションを軽視する。

行政が命令をしてご褒美をやる ご褒美をもらえるからそれをやる。これが日本


アメリカやヨーロッパはいいことをしないと儲からないしくみにする

市場を経由したコミュニケーションを重視する。


日本の場合、まず特措法をつくる。そして特別会計という予算を確保する

おれを業界に配分するために、特殊法人をつくる。そうやって役人たちの

天下り先の席を膨大につくる。その上でお金を配分していく。


アメリカやヨーロッパの例としては、

フィードイン・タリフと言われる固定価格買い取り制度。

フィードイン・タリフは正確にいうと「全量全種固定期間固定価格買取制度」という。

儲けようと思う人、あるいは投資家が従来とは違った行動をするように

市場のパラメータを動かす

炭素税もそう。



次に

日本でのみ流通している誤解について述べる。

スローフード。

多くの人がオーガニックを食べること。トレーサブルなものを食べることと誤解している

スローフードの世界的席巻におののいたアメリカの巨大スーパーが

1990年代半ばにつくりあげたLOHAS(略)/Lifestyles of Heaith and Sustainabilityこれが

まさに有機野菜を食べようトレーサブルなものを食べようという運動


マクドナルドが2009年にイタリアでイタリアのマクドナルドが有機野菜、地元でとれた

トレーサブルなものを使って全ての店でやっていますというマーティングをした

政府がそのキャンペーンに協力をした。

すぐに市民の間から、それはまやかしである。スローフードの本質は

食の共同体自治にあるんだということを主張した

食の共同体自治とは何か。顔がみえる範囲に向かってつくること、

知り合いが自分がつくったものを食べる。

悪いことが出来ない。だからいいことをしようとする。

そのような人間たちから買う。だからスーパーよりも高くてもお金を払おうと思う。

そうゆふにして自律的経済圏が回る。地元の農家や商店街が残る。

地元の人間関係・文化・祭り・まちなみ・まちの匂い、こうしたものが残る

これがスローフードというパッケージ

スローフードとは食材の種類の話ではなくて、食の共同体自治の話


ヨーロッパで自然エネルギーが拡大したのは、直接的には1986年の

チェルノブイリ原発事故がきっかけである。

ヨーロッパ全土まで広がった。食の安全性がおびやかされた。

原発及び原発の電源自体が危ないということが極めて強く認識された


食の共同体自治と同じように、エネルギーも共同体自治させてくれ、というのが

自然エネルギーにかかわるムーブメントの本質となる


日本では残念ながら

巨大スーパーに依存したまま巨大スーパーに食材の選択を要求する

巨大電力会社に依存したまま電源の新たな選択を要求する

先進諸国からみるとあまりにもお粗末な理解にとどまっている。


では、どうして、食やエネルギーの共同体自治が必要なのか

主要には3つのロジックがある。

①1つは安全保障論

②2つめは決定にかかわる正当性論

③3つめは実存の充実にかかわる議論


 ①安全保障論について

  軍事面が議論されがちだが、それは一部であり、もともとがリスクマネジメントの話

  最悪の事態を最小化するにはどうすべきか。どう工夫するか

  市場が依存しすぎると市場が故障したときに危ない、国に依存しすぎても危ない。

  とりわけ90年代以降のグローバル化の進展で市場も国家も不安定になるから、市場・国家に依存

  しすぎるのは危険。だから変わりに共同体自治で自分達を守ろうという議論になる


 ②決定にかかわる正当性論

  1986年のチェルノブイリ原発事故と同年に「危険社会」という本を出したベウルリッヒ・ベック

  が主張していることで、あの頃はチェルノブイリ級の事故は1万年に一度しか起こらないといわれ

  ていた

  しかし。予測不能、事態収拾不能、被害計測不能、これが原発災害の特徴。

  これを前提に、原発を立地することが合理的なのかどうか。

  合理的な行動計画はベイズ統計というのがある

  これは事象の正規確率に事象の評価値をかけて期待値を算出する。

  これを足し合わせてその行動がどれだけ合理的かを算定する


  しかし原発は予測不能、事態収拾不能、被害計測不能

  合理的な行動計画をたてることが出来ない種類のリスク。


  故に「そのようなものについて国家が決めてはいけない」というのがベックの議論


 ③3つめは実存の充実にかかわる議論について

  日本は「まかせてぶ-たれる」作法。

  快適便利アメニテイの発想からすれば、まかせてぶ-たれるのが一番楽。

  引き受けて考えるのはめんどくさい。

  ならば、日本は、アメニテイにあふれ、まかせてぶ-たれるて楽に生きている。

  なのになぜこんなに幸福が低いのか

  それは自分たちがあまりにも不透明なもの上に立っていて自分達が何をしているのかわからない

  ではないか?


  自分たちがどいういう社会を生きていてどういうボタンを押せばどうなるかもわかっていて

  将来こういう社会にするために、みんなで話し合って、ああしようこうしようと出来る社会であれ

  ばめんどくさいけれども、空虚ではない。

  これが共同体自治を重要だと考える 価値観を支える3番目のポイント


 人々が尊厳ある幸せな生活を営もうとすれば、不透明な巨大なものの上にのっかるだけではダメで

 自分達で自分達を支える自立がなければだめだ。

 依存では尊厳は幸せは訪れない。自立なくしては尊厳は幸せは訪れない

 これが共同体自治のポイントになっている。


地域経済団体のボスは例外なく地域経済団体。なぜ?


地方を構成するあらゆる事業体が、大口スポンサーとして電力会社に依存している

国策として原発の推進を行えば、原発を立てれば地域独占供給体制を温存して

電力会社が投資のコストを回収できるように政府がしてくれるだろうと期待する

これが原発を立地の日本における極めて重要な理由の一つである。


自然エネルギー転換の一つの目的は産業構造改革である

自然エネルギーを使うことによって必然的に必要とされる共同体自治をてこにして

空洞化した共同体を復興しようというねらいがある。

自然エネルギーは共同体自治の「要」である。


特措法→特別会計→予算確保→業界配分のための特殊法人。。。ではなくて

市場インセンティブ、市場をつかって人々をひっぱるというタイプの政策的な誘導を行うためには

租税制度改革が非常に重要になる。


どういう政策でひっぱるかは地域によって違うため、道州制を含めて

免除など税制に関して事細かく決めて、市場プル型・市場インセンティブ型の政策誘導

を行えるようにすることが重要である。


つまり

自然エネルギー化は、電源種の選択の問題ではない。


電源選択問題を議論するのをやめて

社会の選択問題に議論をシフトする必要がある

どういう社会をつくりたいから電源はこれがふさわしいという議論に変えていく必要がある


まず任せて文句をいう社会をやめて、引き受けて考える社会にシフトしていかなければならない



今までどおりに空気に縛られる作法にとらわれては困る。

共同体は重要だが、共同体は悪い共同体であってはいけない。

つまり空気に縛られるコミュニケーションをやめて、知識を参照する、あるいは知識を尊重する

コミュニケーション、こういう社会にならなければならない。


行政に従って褒美をもらう社会、「特措法→特別会計→予算確保→業界配分。。。」の図式を止めて

儲けようと思えばいいことをするしかないような、しくみを設計する必要がある。


巨大システムに依存するのをやめて、自分達で自分達を操縦する、つまり、自分たちが

何をやつているのかを絶えず、意識できるような社会にする必要がある。


なぜ日本はこんなに幸福度が低いのか。

便利快適を追求するよりも、幸せと尊厳を追求するべきである


幸せと尊厳の基本は入れ替え不可能性である。

便利快適な社会、便利快適な場所、どこにでもある。そういう発想のところでは

人々はより便利快適を追求するだけ、収入の多い場所に移動しているだけ。


そうではなく、自分たちがいる場所をなんとかしていい場所にしよう、豊かにしよう

共同体を復興しようという場合は、その人は便利快適なを求めているわけではなくて

入れ替え不可能な絆・価値を求めている。


そのためには、ライフスタイルから、ソーシャルスタイルに

みんな一人一人の人生目標を変える必要がある




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