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社会という荒野を生きる 考える処方箋とは何か?

2016.01.26

日々流れるニュースや事件に踊らされるのではなく、問題の本質を掴み、思考を深める







~~~~はじめに~~~~~~~~~~~~~~


「社会という荒野」とは何を意味するのか

「を生きる」とは何を意味するのか

 について説明する


 これを説明する意味は、昨今、政権がどうこうなどといったことが席巻していたりするがどうでもよいこと。

 誰が首相になろうが全体の流れは全く変わらない。

 変わらない全体の流れに対して、どのようにしてポジション・スタンス・構えをとるのか ということが問われている。

 小さなことに触発さえて炎上したり噴出したりしていると時間の無駄、

 エネルギーの無駄、あるいは本質がみえずバカになってしまう


 もちろん、不正・不条理・理不尽等に対して、感情的に反応するのも大事だが

 プライオリティを間違えないようにする必要がある。





~~~~「社会という荒野」とは何を意味するのか~~~~~~~

 

 19世紀の前半に、アレクシ・ド・トクヴィル()が『アメリカのデモクラシー』を書いた頃に

 アメリカのそれぞれのタウンでは、事実上、荒野の中に、何もないところに自分達がまちをつくり、

 まちを守るために、自治の最も有効な合理的な方法としての民主主義を採用した

 もともと民主主義に対して懐疑的だったトクヴィルが想像もしなかった民主主義の理想を生み出し

 て、これならば民主主義に意味があるのではないかと考え『アメリカのデモクラシー』を書いた。

  ※フランス人の政治思想家・法律家・政治家。

  アメリカ政治思想の古典『アメリカのデモクラシー』の著者

  25歳の若者だったトクヴィルは1831年にフランスから新興の民主主義国家だった

  アメリカに渡り、9カ月旅をしてデモクラシーに目覚め、『アメリカのデモクラシー』を書いた


 そのときの彼の問題意識は、荒野の中にタウンがある。この感覚。

 荒野なので、家族や仲間がお互いに守りあおう、結束を固めて。

 部外者や政府などが何か言ってきても、対処する。


 今、荒野が広がっていて、その荒野は社会。

 社会は簡単にはいい方向に改善することが出来ない。

 もしかすると永久に出来ないかもしれない


 上記を敷衍して説明すると次のとおり。

 90年代に入り冷戦体制が終わり、97年の通貨危機以降のいわゆる露骨なグローバル化が進展した。

 グローバル化とは資本移動の自由化なので、取引コスト、製造コストなどの安いところに、資本、人

 やモノが動いていく。

 故にグローバル化が進めば、必ず先進国だった国々の中間層が分解する。

 格差がひろがり、事実上、貧困層が増大した。

 例えば、アメリカでは過去20年間に、IT技術者の収入は半減した。

 これは同じ英語圏のインドの非常に優秀な人間たちが安い労働力(賃金)で仕事を引き受けるから、

 それに合わせて賃金が低下した。

 これ以外に、IT化が進むと、ホワイトカラーの事務労働が不要になった。

 これからもその流れは進展していくだろう。

 中間層を支えていたホワイトカラーが、不要になるということから彼らの多くが、低賃金で働かざる

 を得ない。

 労働市場にて需要が縮小していくから仕方がない。

 上記を背景に、中間層が分解していく。


 2015年に話題になったトマ・ピケティ()が言う。GとRどちらが大きいか。

 Gとは労働から得られる利益、Rは投資から得られる利益。

 基本的には、資本主義においては、ごくわずかな例外を除いては、いつも、R>Gである。

 だから投資をする。

  ※トマ・ピケティはフランスの経済学者。クリシー出身。経済学博士。

   著書「21世紀の資本」(2014年、みすず書房)の中で「r>g」という不等式が

   成立していると主張した。rは「資本収益率」で、株式や債券、不動産などの資本(資産)か

   ら得られる所得を示すもの。一方のgは「経済成長率」で労働により得られる所得。


 しかし第二次大戦後の20年間+α、先進各国で、非常に例外的な事態、つまり

 R<Gであることが、実現したので、それをベースにして中間層が、膨らんだ。


 社会学者であればそこですぐに思い出すのが、大衆社会論()である。

  ※:大衆社会論は、不安と鬱屈を背景とした排外性と攻撃性を問題視


 大衆社会論は戦間期に発達した議論で、大衆社会論の正しさはナチスの登場でほぼ証明された

 と考えられている。


 民主主義がまともに機能するためには、人々が感情的に劣化していてはダメである。

 より知的なもの、より合理的なもの、より意味のあるものに向かわなければならない。


 ところが大衆社会論の議論によれば、都市化の進展により人々が分断されて孤立することになる

 すると、人々は不安と鬱屈で、打ちひしがれた状態になる。

 感情のフック、感情のつりに非常に弱い状態になる


 そこでとりわけ排外主義や攻撃性をベースにした感情のフック・つりが有効に機能するので

 そこをねらって全体主義者たちが、跋扈(ばっこ)するようになる


 しかし第二次大戦後、大衆社会論は下火になった

 その理由は中間層が分厚くなったから。

 アメリカでは、マスコミ効果研究の代表的なジョセフ・トーマス クラッパー

 社会心理学者のポール・ラザースフェルトの2人が非常に重要な議論をしている。


 例えば、

  クラッパーによれば、性的なメディアや暴力的なメディアやコンテンツが

  直接、暴力や性を煽るとする強力効果説は誤りで、本人要因と環境要因次第で影響が変わるとし

  悪影響を気にするなら受容環境を制御せよと述べている。

  受容環境とは、誰と見たのか、一人で見たのか、さほど親しくない人たちといっしょにみたのか

  親しい人間とみたのか、あるいは見終わったあとに、誰と話したのか、それによって

  コンテンツの影響はまるで変わる。

  コンテンツが人を直撃するということはない。

  対人ネットワークにおいて人はメディアの受け取り方が緩和されていることがわかった。


  ラザースフェルによれば

  大統領選挙に関する有名な実証的な研究があり、こう述べている。

  人々は自分が属するスモールグループの運用リーダー層が咀嚼した情報をフォローアップする。

  つまり自分がみている情報をダイレクトには解釈していない。


 2人の議論をベースにすると、中間層が膨れ上がるということは

 現代の言葉でいえば、ソーシャルキャピタル=人間関係資本も豊かになる、

 人間関係資本で包摂されることにより、

 本来であれば感情劣化してしまいそうなところを、噴き上げてしまいそうなところを、

 包摂によって、マイルドに抑制出来る。

 20世紀半ば以降、大衆社会論は下火になった。


 80年代にはいって、中間層の分解が、新自由主義説のもとで問題になり、それを後押しするような形

 で、冷戦体制が崩壊して、グローバル化が進展した。

 2度と中間層が戻ることはないとされた


 そうすると、民主主義をささえている公衆は、中間層の中で人間関係資本に包摂されることによっ

 て、感情劣化抑制を保つ前提となっていたので、前提がくずれた結果、民主主義が誤作動しやすくな

 

 誤作動しやすくなった民主主義のことをポピュリズム、感情の政治という


 そして再び、攻撃性・排外主義を全面に押し出す単純な議論が席巻するようになるこれをさらに後押

 ししているのがインターネット

 インターネットによって個人がむき出しのまま、政治的コミュニケーションに参加することが可能に

 なった


 キャス・サンスティーン曰く、インターネットは見たいものだけをみて見たくないものは見ないメデ

 ィアである。自分が見たいものだけをみてコミュニケーションをとりたい集団だけの器に閉じこもっ

 てコミュニケーションをとるようになる。と述べている。

 これが問題の後押しをしている。


 2001年に、ブッシュ大統領が当選したときの選挙活動で使われた方法として、それまで政治に参加

 しなかった南部・高卒・白人をターゲットにしたやり方が、攻撃性や排外的思想にあおりをかけると

 いうマーケティングで、テロとの戦いにおいて非常に有効だった

 そのため、後に色々な国の指導者および指導者になりうる人たちが、こうしたメカニズムを最大限利

 用するようになったのだそう


 政治学・哲学の世界では上記の一連のプロセスを、「民主主義の危機」と捉えていてとらえていて、

 民主主義の危機をどういうふうに克服出来るのかという問題をたてて処方箋をだしている。


 感情の劣化が問題を深刻化させていることは明確なので、

 第一に

  まずコミュニケーションの中で、感情が劣化した連中がイニシアティブをとれないように封殺す

  る。

  そこで考え出されているやり方がデリバレーション(熟議)である。

  顔をみえる範囲で、どういうたたずまいでどういう雰囲気で何を言っているのかを分かるようにす

  るということ。そういうすることにより、浅ましいヘタレが、 勇ましいことを言って主導権を握

  とうとする振る舞いを抑止出来る。

  それだけではなくて、情報の不完全性や非対称性によって、“これをやっつければすべてが解決す

  る”という単純な思考に陥りがちになるのに対し、デリバレーション(熟議)を通じて適切な情報

  が加え、情報の不完全性を修正できる


  攻撃性・排外主義についても、仲間・友達を通じて、抑制出来る。

  デリバレーション(熟議)を通じて、これまで攻撃対象と思っていたものに

  対して、「実はそうだったのか」という気づきや理解を得ることが出来る。


  こうしたプロセスを通じて、感情の劣化による噴き上げを緩和出来ることが実証された

  この実証した中で最も重要な人物が、ジュームズ・フィシュキンである。

  これを受けて、日本では、熟議型世論調査や熟議型住民投票が行われるようになった。


  熟議を通して行う熟議型世論調査や熟議型住民投票を行うと、例外なく、極端な議論が緩和されら

  マイルドな議論を可能にする。攻撃性・排外主義を緩和出来ることが実証された


  ジョナサン・ハイトが著書「社会はなぜ左と右に分かれるのか」にてこのように言っている。

  社会心理学者のジョナサン・ハイトによれば、『弱者』『平等や公正』『伝統』

  『聖なるもの』『権威』の5つのボタンによって人間の感情が動くといわれている。

  このボタンをどう押すかによって、政治の動員力が変わる


 第二に、有効な処方箋はスモールグループ

  スモールグループは、情報の不完全性や非対称性を制御出来やすい。

  マクロな流れに抗うには、スモールグループから出発させることが有効である。

  もともとアメリカもスモールグループから出発している。


 以上より、

 民主主義の危機をどういうふうに克服していくかの処方箋は

 デリバレーション(熟議)とスモールグループの組み合わせが有効である



 ここから更に敷衍した説明に移る。


 プラグマティズムという発想がある。

 プラグマティズムとは、何が真理かということがわかったときに、どういう動機が生じるのか

 に注目するのがプラグマティズム。

 プラグマティズムは、ラルフ・W・エマソンが「内なる光」と表現している。

 プラグマティズムは、損得勘定の自発性よりも、「内から湧き上がる光」の内発性である。


 近代化とは、M・ウェバーによれば合理化のこと。

 合理化とは手続き主義化、手続き主義化は内容よりも形式を具備できていればよいもの。

 つまり計算可能化=予想可能化となる。

 近代化とはとはすなわち、「合理化」=「手続き主義化→形式化→計算可能化(予想可能化)」である


 我々は神の権威に依存する・縛られることがなくなった。良いことである。

 しかし悪い面がある。それは入れ替え可能化である。

 手続き主義化において誰が決裁しているかはどうでもよいこと

 ハンナ・アーレントが、アイヒマン(600万人ものユダヤ人をガス室送りにしてとしてイスラエル

 に捕らえられて裁判にかけられた)に見出した「悪の汎庸さ」問題である

 裁判の中でアイヒマンは、良心はなかったのかと問われて、良心はあった、しかしその良心は役に

 立たない。

 良心に基づけばただちに処刑されて、また別の者が当てがわれてまた同じことが進むだけ。

 つまり「良心は役に立たない」と言った。

 まったくそのとおりである。


 このことに対しMウェバーは大事なことを言っている。

 上記について、主体の唯一性は全く問われない

 損得計算はだれもが同じように出来る。損得勘定によって人がふるまうとき、人は入れ替え可能であ

 りそこに主体はない。

 神の縛りから自由になった、道徳の縛りから自由になったにも関わらず、

 我々は手続き化がもたらす入れ替え可能化と、損得勘定がもたらす入れ替え可能で人間的な主体性を

 失っている。と言っている。


 ではどうすればよいか。

 Mウェバーの処方箋は、


 社会が近代化されていくと、人は入れ替え可能な存在になり、その結果、道徳がなくなり

 (社会学では、道徳の別名を「社会統合」という)

 つまり、社会が統合を失っていく


 社会統合を取り戻すべく、何かをしなければならない。

 ではどうすべきか。


 M・ウェバーの後継者のカール・シュミットはこのように言う。

 それは社会「統合」を取り戻すための全体主義である。

 民主主義的に選ばれた独裁者社会。全体性を指し示すもの。

 捏造でも嘘でも構わない。なぜならば、社会統合が達成されるから。

 そうすればその社会は滅びることはない。


 しかしカール・シュミットの主張は今日あまり参照されない。

 それは我々がナチスドイツの歴史を知っているから。


 しかしながらこのような社会でも自分たちは抗い、自分たちを保つぞという構え。

 これが「社会という荒野」という概念が示している重要な方向性





~~~~「生きる」とは何を意味し、どうやって生きればよいのか~~~~~~~


 以上の話より、

 マイクロユニット、家族、親族、地域集団などなど、顔の見える範囲でオーラがすぐに人々に認知さ

 れるような、そういうユニットで、自分たちの感情のクオリティを保ち高めていく


 柄谷行人氏と見田宗介氏(宮代さんの師匠)について触れる。


 柄谷行人さんはこのように言っている

 「過去に100年以上の間、社会は、自由主義の時代と帝国主義の時代を繰り返してきた」

  覇権がないから覇権闘争が存在するのが自由主義の時代

  覇権がある故にある種の平和が訪れているのが帝国主義の時代

  これが周期的に繰り返されてきている。と言う。

  つまり社会は長期的な反復として捉えることが出来る。

  上記を踏まえると、アメリカが覇権を失い、派遣がどこか分からない現代は自由主義である。


 見田宗介氏は別の角度からこのように言っている

  地球という有限な環境下に生きる限り、生物学でいう「ロジスティック曲線」から逃れることはで

  きない人間はこれまで、原始社会<定常期>から、カール・ヤスパースのいう「軸の時代」

  (古代ギリシャで哲学が生まれ、仏教や儒教が生まれ、キリスト教の基となる古代ユダヤ

  教の目覚ましい発展があった時代)<過渡期>を経て、文明化による人口増加<爆発期>

  を経験してきたが、近代はその<爆発期>の最終局面だったのであり、

  現代はその後に訪れる<過渡期>、即ち未来社会<定常期>への入り口にある。


 柄谷行人氏のアプローチは長期的な反復

 見田宗介氏のアプローチはロジスティック曲線


 いずれも真であろう。


 いずれも真であるということは具体的にどういうことかを考えることが極めて重要である。

 ヒントは2045年問題

 コンピュータの歴史としては、計算処理→言語処理などを経て、現在は感情の処理のフェーズであ

 る。

 人間は逆である。


 我々は一定の感情の形をもっている。その感情の形は何に向いているかというと定住に向いている。

 しかし定住は過去1万年前にしか成立していない。

 僕たちの感情には定住社会を円滑に営むことが収まらないような規定が分厚く存在している

 ポイントは次のとおり

 感情シミュレーションは、言語のシミュレーションや計算のシミュレーションとは全く異なる。

 言語のシミュレーションや計算のシミュレーションはまさに入れ替え可能

 これらはいわゆる性能である。

 ところが感情シミュレーションは性能ではなく質である。

 我々は現在、コンピュータの感情の働きを学ばせている段階である。

 そして、感情が劣化している我々の感情よりも、より高度な質の高い感情をコンピュータに学ばせて

 いくはずである。

 コンピュータが、その結果、僕たちよりも人間的な存在になるのは時間の問題で、


 2045年問題の本質はそこにある。


 そして人間は、生物学的に鍛えられた利他的や貢献性をおそらくコンピュータに委ねていくだろう。

 それにおいて、社会という荒野を生きる場合、スモールユニットとして生きる場合

 スモールユニットの構成員は人間ではなくなる可能性が考えられる。


 AI等によりホワイトカラーがいなくなるということが問題ではない。なんとでもなる。

 問題はココではない。

 問題は、感情の働きが我々が保つことが出来なくなるということ。

 我々の感情の働きは共同性、共同体、ソーシャルキャピタルの中で、包摂されて育まれている。

 ソーシャルキャピタルが分解をすれば、我々の感情の働きはますます劣化していき、

 それが現実化しているということ。

 民主主義のコアには、非常に優れた感情の働きがなければならない。とすると、

 民主主義の根幹に、感情的に人間化したコンピューターが居座るという可能性がある。


 とするならば、政権がどうとか、〇がどうとか、という話はどーでもよいこと。

 これから、どう構えるかということを各々が、考えて、模索しなければならない。

 そのために、どーでよいことに、感情や理性の能力を奪われるのは、非常によくない。



ソーシャルキャピタルの原資である中間層がもうない。

故に。

我々は、これから、どう構えるかということについて、各々が、考えて、模索しなければならない。



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