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視座の二重性と共同体意識の欠落

更新日:2020年10月10日

~宮台真司さんのアーカイブから学ぶ~

 青木理×宮台真司「『月イチ宮台」

 2020/04/24


日本人は共同体が崩壊すると、日本人は正しさに準じる心がなくなる

・人間は、人間としての視座、人間としての視座だけの場合、人間はズルしがちである。

 人が見てる、神がみてる、自分がみてるという視座が必要。

・神がみているという感受性は日本にはない。人がみているようで誰もみていない。

・そんなときに、自分で自分をみるっていう視座があるかというとない。

・どうしてないのかというと、自分で自分をみる視座が出来るためには、その前に、神がみて

 いるとか先祖がみているとかという、心の働きが十分に染みわたっていないとダメ。

・日本は、共同体の空洞化のプロセスを経て、誰も見てなきゃ何をやってもいいんだってこと

 になった。

・「自分としての自分」から離れるという視座の二重性を確保するための工夫が天皇制。

・アメリカの場合、憲法を書いた人 ファウンディング・ファーザーズの視座をとるということ。

・自分としての自分、自分達としての自分はこう思うけど、ファウンディング・ファーザーズが

 今生きていたら、こういうふうに言うだろう、神が今メッセージを語っていたらこういうふう

 にいうだろ、このような、自分にないものの視座をとるということが大事。

・北一輝によればそれが国民の天皇だった。

・法というのは必ず立法の文脈があり,どういう立法意思でつくられたのかということを踏まえる

 ことが保守主義者の基本。保守主義者であれば、立法の文脈を踏まえることが必要。

 なぜならば、法は必ず共通感覚コモンセンスをベースにしてまわるようになっていて、コモン

 センスは法に書かれていない、法にかかれていることだけをやるのは保守主義者的に正しいが

 言葉の自動機械である法の奴隷は、法に書かれていないなら何やってもいいんだと考える。

 今の現行の法の外側をみようという,まなざしがない。

・なぜこんなにクズ官僚が蔓延しているのか。クズ政治家が蔓延しているのか

・クズには定義がある、言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシン

・日本は視座の2重性は神ではない形で与えられていた。

・「自分としての自分」はこうだけど,でも「みんなは?」というふうに、共同体の仲間のまな

 ざしを気にするってところがあった。

・日本は,「一緒にいれば仲良くなる」という、いわゆる一般の恩義的なコミュニケーションの

 スタイルだった。

・共同体の中にいることで、自分としての自分のまなざしとは別に、共同体のみんなは?と思

 うことで、自分としての自分を超えることが出来た。

・今の日本人は所属集団の中でポジション取りをするだけ。

・感情が劣化した無教養で愚かで無知な自分としての自分にみんなへばりついて仕事している。

・官僚・政治家・その他日本人の多くがそういう状態にある


・処方箋は、共同体をとりもどし、共同新体制や共通感覚をとりもどし、仲間の体制、感情の体

 制、体の体制が自分にダイレクトに反応できるような、自分にダイレクトに染み込んでくる

 ようなそういう状態を取り戻すことが重要。



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